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チャイコフスキー:交響曲第2番 ハ短調 作品17 「小ロシア」(Tchaikovsky:Symphony No.2 in C minor, Op.17 "Little Russian")


セルジュ・チェリビダッケ指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 1948年録音(Sergiu Celibidache:the Berlin Philharmonic Orchestra Recorded on 1948)をダウンロード

  1. Tchaikovsky:Symphony No.2 in C minor, Op.17 "Little Russian" [1.Andante sostenuto. Allegro vivo]
  2. Tchaikovsky:Symphony No.2 in C minor, Op.17 "Little Russian" [2.Andantino marziale quasi moderato]
  3. Tchaikovsky:Symphony No.2 in C minor, Op.17 "Little Russian" [3.Scherzo: Allegro molto vivace]
  4. Tchaikovsky:Symphony No.2 in C minor, Op.17 "Little Russian" [4.Moderato assai. Allegro vivo. Presto]

交響曲を書くという「使命」



チャイコフスキーは交響曲を書くことを求められれていました。

何故ならば、遅れたロシアが音楽の分野でもヨーロッパに追いつくためには、クラシック音楽の王道である交響曲の分野において、ヨーロッパの音楽家が書いた交響曲に劣らないような「交響曲」をロシアの音楽家が書くことが求められていたからです。

もちろん、チャイコフスキーに先んじて交響曲を書いたロシアの音楽家は存在しました。たとえば、チャイコフスキーの師であったアントン・ルビンシテインは既に3曲の交響曲を書き上げていました。
しかし、それらの交響曲は既存のスタイルをなぞっただけの亜流の音楽の域を出ることはなく(聞いたことがないので無責任な受け売りです^^;)、未だ助走にしか過ぎませんでした。

ですから、ルビンシテインが初代の院長となって創設されたペルブルグ音楽院の目的は遅れたロシアが音楽の面でもヨーロッパの水準にまで引き上げることでした。
そして、その音楽院の第1期生として最優秀の成績で卒業したのがチャイコフスキーだったのです。

ロシアの音楽界は、この若き天才にロシアが超えなければいけない課題を託したのです。
ですから、彼は1865年に音楽院を卒業すると、すぐに交響曲の作曲に取りかかります。そして、その翌年の1866年に第1番の交響曲「冬の日の幻想」を完成させます。
おそらく、今でもコンサートで取り上げられる事がある「ロシア初の交響曲」としてはこれが間違いなく第1番です。

しかし、この交響曲を示された師のルビンシテインは全く気に入らなかったようです。理由は単純です。ヨーロッパの交響曲が持っている強固な形式感が希薄だと感じたのです。
確かに第1番の交響曲は、明らかに交響詩的な性格を色濃く持っています。

そこにあるのは主題を構成する動機をもとに音楽を論理的にくみ上げていくのではなく、彼が愛したロシアの大地のイメージを次々と提示していくような音楽だったからです。
いや、提示していくのではなくて、まるで聞き手がロシアの大地を逍遙していくかのような雰囲気の音楽なのです。
ルビンシテインにしてみれば、オレが期待したのはこんな音楽じゃない!と言いたかったのでしょうね。

しかし、そんな師の不興にかかわらず、これを評価して初演を実現してくれた人がいました。
それが、1866年に開校されたモスクワ音楽院の初代院長、ニコライ・ルビンシテインでした。
アントン・ルビンシテインの弟であり、偉大なピアニストとして名を残した人です。(ただし、チャイコフスキーのピアノ協奏曲を演奏不可としてはねつけたことでも有名です)

至る所にロシアの民謡の旋律が使われていて、さらに最終楽章では革命的な学生運動の中で歌われた「花が咲いた」のメロディが使われています。
そういうあたりも師の不興を買った原因のようです。

そして、それに続けて書かれたのが交響曲第2番でした。

この作品は1872年7月に着手し10月には完成し、さらに翌年の1月には初演がされています。
第1楽章と終楽章でウクライナなの民謡が用いられているので「ウクライナ」もしくは「小ロシア」と呼ばれるようになった作品ですが、それはチャイコフスキー自身が与えた標題ではありません。

ただし、この作品も後に大幅に手を加えられ、1879年の第2稿が決定版となっています。
1879年と言えばすでに彼の個性がはっきりと刻印されるようになった第4番の交響曲が書き上げられた翌年です。

そして、その改訂は部分的な手直しというよりは「改作」に近いものだったので、番号は2番と若くても内容的にはかなり充実したものになっています。
チャイコフスキーの初期シンフォニー3曲の中ではもっとも演奏機会の多い作品だと言えます。


明晰にしてしなやかな歌心が溢れている


敗戦直後の瓦礫の街と化したベルリンで演奏されたブラームスの4番を聞いたときは驚きのあまり仰け反ってしまいました。おそらく、私がこういう歴史的録音を紹介しようと思い立った要因の一つであったことは間違いありません。
あのチェリビダッケとベルリンフィルによるブラームスの4番は本当に刮目に値する演奏でした。

そして、彼が40年代から50年代初頭のベルリンフィルとの録音を聞いていけばいくほど、それらの演奏はいろんなことを考えさせてくれます。
今、私の手もとにある音源で交響曲だけをあげると以下の9点です。

  1. ハイドン:交響曲第94番 ト長調 Hob.I:94 「驚愕」

  2. ハイドン:交響曲第104番 ニ長調 Hob.I:104 「ロンドン」

  3. モーツァルト:交響曲第25番 ト短調 K.183

  4. メンデルスゾーン:交響曲第4番 イ長調, Op.90 「イタリア」

  5. ブラームス:交響曲第2番 ニ長調, Op.73

  6. ブラームス:交響曲第4番 ホ短調, Op.98

  7. チャイコフスキー:交響曲第2番 ハ短調 ,Op.17 「小ロシア」

  8. チャイコフスキー:交響曲第5番 ホ短調 Op.64

  9. プロコフィエフ:交響曲第1番 Op.25「古典」


どの録音をとってもまずなによりも「明晰」な演奏であり、明らかにフルトヴェングラーに対する対抗意識を感じ取ることができます。そして、しなやかな歌心にも溢れています。
そして、そういうチェリビダッケの棒に応えて見事な演奏を展開しているベルリンフィルの能力にも驚かされます。ベルリンが瓦礫の山となって間もない頃でも、フルヴェンとは全く異なる演奏様式を求めるチェリビダッケの棒に応えてこれほどの水準を維持している事は驚嘆に値します。
しかし、ここまでオケとしての機能を維持していたということは、裏返してみれば、ナチス統治下のドイツでベルリンフィルがいかに特別扱いされていたかということを裏付ける事実なのかもしれません。

これらの録音を聞くだけでも、非ナチ化によって音楽活動から身を引かなければいけなかったフルトヴェングラーの代役としてベルリンフィルの指揮台にたったチェリビダッケがいかに自信と意欲に溢れていたかが分かります。
そして、それだけの能力を十分に備えていることを彼は次々と証明していきます。
フルトヴェングラーもまた自分の後継者としてチェリビダッケを認めていたといいます。

彼の求める音楽のベクトルはフルトヴェングラーとは対照的ですが、カラヤンとは明らかに同質です。そして両者が作り出す音楽を比較すればどう考えても当時のカラヤンよりは数段上です。
いや、こういう言い方は誤解を招くでしょう。
誰かと誰かを較べて、彼らとは全く関係のない第三者がこっちが上でこっちが下だ、などと言うことは不遜の極みです。
しかしながら、チェリビダッケが疑いもなく自分がカラヤンより劣る存在だ等とは微塵も思っていなかったことだけは容易に想像できます。そして、そう言う想像くらいは許されるでしょう。

カラヤンがチェリビダッケを追い落としてベルリンのポストを獲得する過程で何があったのかは分かりませんが、それがチェリビダッケにとって耐え難いことであったことは容易に推察できます。
ライバルの力が明らかに自分を上回っていても、ポストから追われるというのは辛いことです。それが、どう考えても自分よりも劣ると確信している人物に追い落とされるとなると、その胸中は察するに余りあります。

事実、フルトヴェングラーが1952年にベルリンフィルの「終身首席指揮者」に就任してチェリビダッケとベルリンフィルとの関係が悪化していく中でも、彼が指揮するベルリンフィルとの演奏会は聞き手からも批評家からも熱狂的に受け入れられていました。
しかし、フルトヴェングラー亡き後にベルリンフィルが選んだのはカラヤンだったのです。

私はチェリのへそ曲がり人生はここからスタートしたのだと思います。
彼がベルリンフィルの指揮台に立って残した録音を聞くと、その後の無念が痛いほど聞き手に伝わってきます。

これはあくまでも私の想像ですが、カラヤンが「メジャーの帝王」へと駆け上がっていくのを見て、自らは「マイナー」に徹するという「へそ曲がり」で対抗し、精神の均衡を保とうとしたのではないでしょうか。
録音という行為を拒否したことも、カラヤン的な上昇志向への反発として考えれば実に有効なパフォーマンスでした。この事についてチェリビダッケ自身はあれこれと難しげな事を語っていますが、どう考えても「後付の理屈」のような気がしてなりません。
メジャーで活躍する指揮者へのとんでもない「毒舌」も、インタビューでの人を馬鹿にしたような受け答えも、そういうへそ曲がり人生という観点から見れば全て納得がいきます。

そして、そのようなへそ曲がり人生を貫き通した戦後数十年という歳月は、マイナーに徹したがゆえにカリスマ性を生み出し、その音楽に神秘性を与える域にまで上りつめたことは事実です。
チェリビダッケは自らが望んだように「マイナーの帝王」へと上りつめ、マイナー性に徹することでメジャーをのりこえる存在となりました。
それはそれで、素晴らしいことで、なにも文句を申し上げるようなことはありません。(^^;;

その事は認めながらも、この戦後間もない時期に録音された、若き日の「へそが曲がる前の素晴らしい演奏」を聞かされると、あるはずのない「if」を想像してしまいます。
それは、もしその実力に相応しく戦後のベルリンのシェフとして君臨し、へそが曲がることもなしにメジャーの世界で活躍していたらどのよう音楽を作り出してくれただろう?という「if」です。
おそらくはへそ曲がり人生の中で生み出した以上の成果を残してくれたと思うのですがいかがなものでしょうか。

へそ曲がりのチェリを愛する(マイナーの帝王としてのチェリを愛する)多くのファンからお叱りをうけるでしょうが、この若き日の素晴らしい演奏を聞かされると、そういう愚にもつかぬ「if」を思わず想像してしまのです。