クラシック音楽へのおさそい〜Blue Sky Label〜


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モーツァルト:ディヴェルティメント 第7番 ニ長調, K.205 /167a


ヘルマン・アーベントロート指揮 ライプツィヒ放送交響楽団 1956年3月26日録音をダウンロード

  1. Mozart:Divertimento in D major, K.205/167A [1.Largo - Allegro]
  2. Mozart:Divertimento in D major, K.205/167A [2.Menuetto (D major, 24 bars) e Trio]
  3. Mozart:Divertimento in D major, K.205/167A [3.Adagio]
  4. Mozart:Divertimento in D major, K.205/167A [4.Menuetto e Trio]
  5. Mozart:Divertimento in D major, K.205/167A [5.Finale: Presto]

室内楽のもっとも繊細なスタイルの先駆け



自筆譜にモーツァルトが日付を記入しなかったために、その成立時期に関しては昔から議論の対象となってきた作品です。
使用されている楽譜の用紙がザルツブルグ時代のものとは異なることから、当初は1773年にウィーンを訪問したときの作品と考えられていました。さらに、それを裏付けるように8月18日にアントン・メスマー博士の庭園で行われたコンサートについて父親のレオポルドが手紙でふれているので、おそらくはそのコンサートで披露されたものだと考えられていたのです。

アインシュタインもまたその考えに賛同したようで「当時モーツァルト父子が出入りしていた家の園遊会のために、おそらくメスマー家のために、1773年秋にヴィーンで書かれたのである。」と述べています。
そしてこの作品を室内楽のもっとも繊細なスタイルの先駆けと評価し「5,6人の演奏者が行進曲とともに登場、退場し、庭にのぞんだ蝋燭の光に明るい広間で、本来のディヴェルティメントを演奏するさまが想像される。 大きな深淵をあからさまにしてはならない、そして技術は目立たないように典雅な趣きのうちに包み込まれていなければならない。しかし、名人芸の披露は許されている」と述べています。

アインシュタインはこの作品についてこれはオブリガート・ホルンを加えた弦楽三重奏曲以外のなにものでもない」と評している。
そして、常にファーストヴァイオリンが主役を務め、その演奏者は前に進み出て喝采を受ける権利を有していると述べています。

まさにこの作品の特徴を見事に言い表した言葉であり、そこにはヴァイオリン・コンチェルト的な要素が潜んでいることを我々に教えてくれます。


フルトヴェングラー的なものとトスカニーニ的なものがなんの矛盾もなく同居している


この録音は私の中にあったアーベントロートという指揮者に対する「思いこみ」を根っこから覆してくれました。
その思いこみというのは、少し前に紹介したチャイコフスキーの「悲愴」などによって作られたものでした。それは、主情に貫かれた演奏と言うのが通り相場です。しかし、じっくりと聞いてみればその「主情」は決して「恣意性」とは無縁であり、その歌わせ方が世間の常識とどれほどかけ離れていようと、それらは全て確固たる解釈の上に築き上げられたものだという印象でした。

しかし、このモーツァルトとの「ジュピター」はあの「悲愴」を演奏した指揮者と同一人物の手になるものだとは到底信じられません。
それどころか、これをブラインド聞かせて「トスカニーニのモーツァルトですよ」と言われてもほとんどの人は疑問には思わないでしょう。それほどに客観性に貫かれた、そしてジュピターらしい堂々たる構築性にあふれた音楽が展開されています。

さらに言えば、トスカニーニは「正直に言うとね、僕は時々モーツァルトの音楽にうんざりするんだ。」と述べていました。ただし例外としてト短調シンフォニーを上げていたのですから、このジュピターはトスカニーニとっては「正直に言えば退屈」な音楽だったのでしょう。
しかし、アーベントロートにはそう言う思いは欠片もなかったようです。
トスカニーニの場合はフレーズは短めに切り上げてともすれば前のめりになりがちなのが特長ですが、1946年録音のジュピターの第3楽章の突き進み方等は聞いていて思わず仰け反ってしまいます。そう言う意味では、このアーベントロートの方がはるかに客観性に満ちた造形であり、ともすれば頑固になりがちなトスカニーニと違って剛直でありながらもしなやかさを失っていません。

これを一言で表現すれば、アーベントロートという人の中にはフルトヴェングラー的なものとトスカニーニ的なものがなんの矛盾もなく同居していると言うことでしょうか。
おそらく、チャイコフスキーの「悲愴」に違和感を覚える人であっても、この「ジュピター」に違和感を感じることはあり得ないでしょう。

そして、その事はジュピターだけに限らず、同時に録音されたディヴェルティメントとセレナードにも適用されているのです。
さすがに、作品そのものにジュピターのような構築性はないので、それらの音楽に相応しいゆったり感はあるのですが、テンポを動かしたり独特な歌わせ方などとは全く無縁な演奏です。そして、その音楽は決して硬直した新即物主義の演奏とは全く別物なのです。

こういう演奏に時たま出会えることが、そして、その事によって深く考え込まされるのがヒストリカル音源の世界を彷徨う楽しみだとも言えます。