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サン=サーンス:ヴァイオリン・ソナタ第1番 ニ短調, Op.75


(Vn)ヤッシャ・ハイフェッツ:(P)エマニュエル・ベイ 1950年4月7日録音をダウンロード

  1. Saint-Saens:Violin Sonata No.1, Op.75 [1.Allegro agitato (attacca)]
  2. Saint-Saens:Violin Sonata No.1, Op.75 [2.Adagio]
  3. Saint-Saens:Violin Sonata No.1, Op.75 [3.Allegretto moderato (attacca)]
  4. Saint-Saens:Violin Sonata No.1, Op.75 [4.Allegro molto]

ヴァントゥイユのソナタのモデルだったのでしょうか



この作品は全曲が通して演奏されるので、作品の構成をどう見るのかについてはいろいろな見方があるようです。
まず雰囲気としては全曲が大きく二つ部分に分かれていて、さらにそれぞれが二つに分かれているように見えるので、それぞれを独立した楽章として古典的なソナタに対応する4楽章構成と見る向きもあります。
または、交響曲第3番のよう大きな二つの塊を「第1部」「第2部」とみることも出来ますし、途切れ無しに演奏される単一楽章の作品と見ても差し支えないかもしれません。

あまり難しいことは考えずにこのハイフェッツの録音をボンヤリ聞いていれば2楽章構成のヴァイオリン曲と聞こえるでしょうね。(^^;
取りあえず、ここでは音源が2つの部分に分けて「第1部」「第2部」とし、さらにそれぞれを二つの部分に分けていますので、下記のような構成としてアップしておきます。

  1. Saint-Saens:Violin Sonata No.1, Op.75 [1-a.Allegro agitato (attacca)]

  2. Saint-Saens:Violin Sonata No.1, Op.75 [1-b.Adagio]

  3. Saint-Saens:Violin Sonata No.1, Op.75 [2-a.Allegretto moderato (attacca)]

  4. Saint-Saens:Violin Sonata No.1, Op.75 [2-b.Allegro molto]


ちなみに、この作品はマルセル・プルーストの「失われた時を求めて」に登場する音楽家ヴァントゥイユのソナタのモデルではないかと言われています。

何故ならば。プルーストは手紙の中で「サン=トゥーヴェルト夫人邸の夜会の場面では、私の好きな作曲家ではありませんが、サン=サーンスの「ピアノとヴァイオリンのためのソナタ」に出てくる、感じはいいけれど凡庸というほかない楽節を念頭に置いていました。何度もくり返しあらわれるその一節がどの箇所か正確に申しあげることができます。ジャック・ティボーが演奏して大当たりをとった一節です。」と述べている。

しかし、この手紙に書かれている皮肉と「失われた時を求めて」の中での褒め方には明らかに違和感があります。
その前の年、スワンはある夜会で、ピアノとヴァイオリンで演奏された曲を聴いたことがあった。最初は、楽器から出る音の物質的特徴しか味わえなかった。ところがそれが大きな喜びとなったのは、ヴァイオリンの、か細いけれど持久力のある密度の高い主導的な小さな旋律線の下から、突然ピアノのパートが、さざ波の音のように湧きあがり、さまざまな形のそれでいて分割できない平面となってぶつかり合うのを見たときで、それはまるで月の光に魅せられ半音下げられて揺れうごく薄紫色の波を想わせた。

友人への手紙の中では「凡庸」と切って捨てた作品に対して、プルーストがあれだけ心血を注いだ作品の中に「月の光に魅せられ半音下げられて揺れうごく薄紫色の波を想わせた」と讃辞を捧げるというのは不思議な話です。

ですから、このソナタをプルーストの作品に登場するヴァントゥイユのソナタにピッタリと重ねるには無理があるのかもしれません。
しかしあの作品を書き上げるのには長い時間を要していますから、執筆途中でプルーストのサン=サーンスに対する評価が変化したと言うことも考えられます。

とにかく曰く因縁の多い作品ですが、もう一つふれておきたいのは、この作品がジャック・ティボーによって広く世に知られるようになり、ジャック・ティボーもまたこの作品によってキャリアを築くことが出来たということです。
このソナタはジャック・ティボーの師匠であるマルタン・マルシックとサン=サーンスがスペインに演奏旅行したことを切っ掛けに、サン=サーンスが感謝の念を込めてマルシックに贈ったものです。それを弟子のティボーが広めたというわけです。

最初は舟歌の穏やか楽想ではじまり、やがて無窮動の第一主題による苦難の道のりが始まり、それが最後には歓喜の歌の第二主題による無窮動の超絶技巧によって輝かしく終結するというスタイルは実に分かりやすく演奏効果は抜群です。
ただし、こういうところがサン=サーンスを保守的で凡庸な音楽家と批判される原因と言われます。しかし、それでも作品の完成度の高さは疑う余地がないので、そう言う悪評は保守的と言われる音楽的な要素よりも人を人とも思わないサン=サーンスの剣呑な性格が一番大きな原因だったことは見ておく必要があるでしょう。


名人芸のどこが悪い


おそらくこのソナタを演奏するときに最大の課題となるのは、最後の圧倒的な推進力で天空に駆け上がるような無窮動をいかに弾きこなすかでしょう。

ところが、このソナタ、何故かと言うべきか、やはりと言うべきか、専門家筋には至って評判が悪いのです。
そう言えば、五嶋みどりがこの曲を取り上げた時にあの吉田秀和氏が「これから精神的な充実を迎える時になぜこんな曲をとりあげるのだ」みたいなことを書いていたのを思い出しました。

つまりは、彼にとってサン=サーンスの音楽などと言うのは取り上げるに値しなかったのでしょう。
もう少し聞かれても良いと思う作曲家としてヘンデルの名前を挙げたことがあるのですが、このサン=サーンスなどはそう言う項目にもっとあてはまる作曲家かもしれません。

そして、このハイフェッツの演奏もただ速く奏けばいいだろうという下らぬ演奏だと言う評価もよく耳にします。つまりは、このヴァイオリン・ソナタはそう言う名人芸をひけらかすだけの作品だという認識が前提にあるのでしょう。
吉田秀和氏もまたそう言う前提で苦言を呈したのでしょう。

しかし、このハイフェッツの演奏は決して名人芸をひけらかすことだけを目的としたような演奏ではありません。
また、逆にこの作品にあれこれの付加価値を追加して盛ろうとしているわけでもありません。

ハイフェッツという人の本質はもしかしたら「皮むき」なのかもしれません。
世の中には「ゆり根」のように、外側の皮を剥いていったら最後は何もなくなるようなものが存在します。それは音楽においても同様で、耳になじみやすい旋律や華やかな演奏効果などと言う外側の皮を剥いていけば、最後には何も残らないような音楽もあります。
意外かもしれませんが、こういう50年代のハイフェッツの演奏を聞いていると、そう言う外側の皮を徹底的に剥いてしまって、最後に残った芯の部分だけを誠実に表現しようとしている姿が見えてきます。

そして、そう言う姿勢が常に真摯であるが故に、ハイフェッツの演奏で最後の圧倒的な無窮動の迫力を聞くとき、「名人芸のどこが悪い!」と開き直れる勇気を私に与えてくれるのです。

確かに精神性というよく分からない皮に包まれたドラマというのは、難しいように見えて、意外と簡単に表現できるものです。しかし、そう言う精神性などと言うものをまとわずにユートピアを描くのは困難です。
ベートーベンを悪く言うつもりはありませんが、「苦悩から歓喜へ」みたいなドラマ抜きで天上のユートピアを思い描かせるのは大変なことなのです。

そう言えば、ホロヴィッツの指がユートピアだと言った人がいました。
そう言う意味合いにおいて、一点一画も疎かにしないハイフェッツの鋭利なヴァイオリンもまた安易なドラマを否定した上で成立する一つのユートピアを描ききっています。

それを受け入れられないとすれば、おそらくはいらぬ「教養主義」が邪魔をしているのではないでしょうか。

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