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チャイコフスキー:交響曲第6番 ロ短調 作品74 「悲愴」

ハンス・シュミット=イッセルシュテット指揮 北ドイツ放送交響楽団 1960年5月23日~24日録音


  1. Tchaikovsky:Symphony No.6 in B minor, Op.74 "Pathetique" [1.Adagio - Allegro non troppo]
  2. Tchaikovsky:Symphony No.6 in B minor, Op.74 "Pathetique" [2.Allegro con grazia]
  3. Tchaikovsky:Symphony No.6 in B minor, Op.74 "Pathetique" [3.Allegro molto vivace]
  4. Tchaikovsky:Symphony No.6 in B minor, Op.74 "Pathetique" [4.Adagio lamentoso]



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私は旅行中に頭の中でこれを作曲しながら幾度となく泣いた。

 チャイコフスキーの後期の交響曲は全て「標題音楽」であって「絶対音楽」ではないとよく言われます。それは、根底に何らかの文学的なプログラムがあって、それに従って作曲されたというわけです。
 もちろん、このプログラムに関してはチャイコフスキー自身もいろいろなところでふれていますし、4番のようにパトロンであるメック夫人に対して懇切丁寧にそれを解説しているものもあります。
 しかし6番に関しては「プログラムはあることはあるが、公表することは希望しない」と語っています。弟のモデストも、この6番のプログラムに関する問い合わせに「彼はその秘密を墓場に持っていってしまった。」と語っていますから、あれこれの詮索は無意味なように思うのですが、いろんな人が想像をたくましくしてあれこれと語っています。

 ただ、いつも思うのですが、何のプログラムも存在しない、純粋な音響の運動体でしかないような音楽などと言うのは存在するのでしょうか。いわゆる「前衛」という愚かな試みの中には存在するのでしょうが、私はああいう存在は「音楽」の名に値しないものだと信じています。人の心の琴線にふれてくるような、音楽としての最低限の資質を維持しているもののなかで、何のプログラムも存在しないと言うような作品は存在するのでしょうか。
 例えば、ブラームスの交響曲をとりあげて、あれを「標題音楽」だと言う人はいないでしょう。では、あの作品は何のプログラムも存在しない純粋で絶対的な音響の運動体なのでしょうか?私は音楽を聞くことによって何らかのイメージや感情が呼び覚まされるのは、それらの作品の根底に潜むプログラムに触発されるからだと思うのですがいかがなものでしょうか。
 もちろんここで言っているプログラムというのは「何らかの物語」があって、それを音でなぞっているというようなレベルの話ではありません。時々いますね。「ここは小川のせせらぎをあらわしているんですよ。次のところは田舎に着いたうれしい感情の表現ですね。」というお気楽モードの解説が・・・(^^;(R.シュトラウスの一連の交響詩みたいな、そういうレベルでの優れものはあることにはありますが。あれはあれで凄いです!!!)
 
 私は、チャイコフスキーは創作にかかわって他の人よりは「正直」だっただけではないのかと思います。ただ、この6番のプログラムは極めて私小説的なものでした。それ故に彼は公表することを望まなかったのだと思います。
 「今度の交響曲にはプログラムはあるが、それは謎であるべきもので、想像する人に任せよう。このプログラムは全く主観的なものだ。私は旅行中に頭の中でこれを作曲しながら幾度となく泣いた。」
 チャイコフスキーのこの言葉に、「悲愴」のすべてが語られていると思います。


「悲愴」という音楽に内在する「異常」さを見事なまでに洗い流している


1960年の録音なのにモノラル録音です。
EMI録音なのですが、いくらEMIでも60年でモノラルはないだろうと思ったのですが(^^;、調べてみればライブ録音らしいのです。北ドイツ放送交響楽団の本拠地でもあったハンブルクのムジークハレ(現代はライスハレ[Laeiszhalle]と呼称が変わっている)でのライブと言うことですから、おそらくはEMIの録音陣がハンブルクに乗り込んで定期演奏会を録音したのでしょう。
ただし、どういう経緯でこのようなライブ録音が行われるようになったのかは不明です。どちらにしても、イッセルシュテットと北ドイツ放送交響楽団と言うのは、その優れた能力にもかかわらず録音には恵まれない存在でした。

それにしても、これは不思議な「悲愴」です。
「悲愴」と言えば、作曲者であるチャイコフスキーが「私は旅行中に頭の中でこれを作曲しながら幾度となく泣いた。」と回想しているほどに「異常」な音楽なのです。しかし、ここではその様な「異常」さは見事なまでに洗い流されています。
それは、たとえてみれば、様々な悲劇的な出来事を目の前でおこっている現在進行形として辿っていくべき音楽を、まるで過ぎ去った過去を回想するかのような過去完了形として描き出している様に聞こえるのです。
ただし、その回想は実にリアルです。記憶の一つ一つにはクッキリと光が当てられていてぼやけるような場面は一つもありません。
オーケストラのバランスを完璧にコントロールしていくイッセルシュテットの手腕と、それに応えきる北ドイツ放送交響楽団のクオリティは見事なものです。
ところが、そのクリアな響きを捉えている録音がモノラルだと言うことで、そこに不思議なアンティーク感が漂うのです。私がこの演奏に「過去完了形」を感じたのはそのアンティーク感によるものかもしれません。

彼(もしくは彼女)はすでに年を重ね、孤独の中で窓辺に座って白樺林をながめています。そんな彼の脳裏には自分が辿ってきた人生での様々な出来事が去来していくのです。その多くは悲劇的なものであったかもしれないのですが、その悲劇も全ては過ぎ去ったことです。時に訪れた憧れや沸き立つような情熱もまた全て過去のものとなりました。そして、そういう追憶の幻の中で彼は再び眠りに落ちるのです。その眠りは一時のものなのか、それとも永久に続くものなのかわ分かりません。

イッセルシュテットと言えば「中庸」の指揮者と言われるのですが、確かにこれほどまでに角を落とした「悲愴」は珍しいでしょう。しかし、それが決して微温的なものに終わらないのは、そこに確固たる音楽のイメージが存在しているからでしょう。
指揮者にその様な確固としたイメージがあるからこそ、それに触発されて聞き手もまたそこに自分なりのイメージを結ぶことが出来るのです。

とは言え、いくらライブでも、60年になっているんだからステレオで録音してよねとは言いたくはなります。
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