クラシック音楽へのおさそい〜Blue Sky Label〜


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J.S.バッハ:ロ短調ミサ BWV 232 [4.サンクトゥス、ホザンナ、ベネディクトゥス、アニュス・デイ (Sanctus, Hosanna, Benedictus, and Agnus Dei)]


ハンス・シュミット=イッセルシュテット指揮 北ドイツ放送交響楽団 ハンブルクNWDR合唱団 (S)マルゴット・ギヨーム (A)ゲルトルート・ピッツィンガー (T)ワルター・ガイスラー (Bs)ヨーゼフ・グラインドル 1950年3月19日~20日録音をダウンロード

  1. J.S.Bach:Mass in B minor BWV 232 [4.Sanctus]
  2. J.S.Bach:Mass in B minor BWV 232 [4.Osanna]
  3. J.S.Bach:Mass in B minor BWV 232 [4.Benedictus]
  4. J.S.Bach:Mass in B minor BWV 232 [4.Osanna]
  5. J.S.Bach:Mass in B minor BWV 232 [4.Agnus Dei]
  6. J.S.Bach:Mass in B minor BWV 232 [4.Dona nobis pacem]

生きる喜びを歌いあげた作品



バッハの数ある作品の中でも、マタイ受難曲とならぶ大作です。
大作というのは、その規模においても、内容においても大作だということです。

しかし、ならび称されるこの2作品ですが、そのたたずまいには大きな違いがあります。

まずは、マタイを聞くにはかなりの精神的なエネルギーが必要です。それなりの心構えが必要ですし、途中の何曲かを「つまみ聞き」なんてことは、まずできません。

それに対して、ロ短調のミサ曲は、ずいぶんと気楽に聞くことができます。少なくとも、私にとってはそうです。
おいしそうなところだけを、つまみ聞きしても十分に楽しむことができます。
もちろん、曲の成り立ち自体が大きく異なるわけですから、それも当然のことかもしれません。

一言で言えば、マタイが「生きる」ということをとことんまで突き詰めた作品であるのに反して、ロ短調ミサは、もっと素直に生きることの喜びみたいなものを歌い上げているような気がします。

キリスト教徒でもない私にとって、このミサ曲が宗教的にはどのような意味を持っているのかは全く知識がありません。しかし、いたるところで耳にできる弾むようなリズムと美しい旋律は、聞くものに喜ばしい感情をわきたたせてくれます。

バッハといえば、いつも謹厳実直なイメージが先行しますが、多くの子どもに恵まれた艶福家であったことも事実です。そんなバッハが人生を楽しまなかったはずはありません。
これもまた、バッハの一つの側面なのではないでしょうか。

<追記>
キリスト教関係者の方から、もっと聖書の勉強をしてから解説を書けとのお叱りを受けました。バッハの音楽は人類の罪のためにキリストが十字架にかかる事実を音楽にしたもので、「生きる」ことをテーマにしているなどというのは誤解も甚だしいというご指摘です。(^^;

しかしながら、私のポリシーは「井の中の蛙大海を知らずされど天の青さを知る」です。
私には、自分の耳を通して感じ取ったことだけしか書けません。

バッハの宗教音楽というものは、その外面がどれほど宗教的な衣をまとっていても、その根底に人間の問題を見据えているがゆえに人を感動させる力を持っていると思っています。井の中の蛙にすぎない私が見上げることができた空の青さはその点時に尽きます。
そして、その事は、リヒターのマタイをアップしたときもう少し詳しく述べました。

キリスト者であれば、そのような愚かな人間の独りよがりも御寛容願えるのではないかと期待しております。
<追記終わり>

それから、最後ににわか勉強の知ったかぶりを許されるならば、「ミサ曲ロ短調」は一つのまとまった作品か?と言う問題が常につきまとうことは指摘しておく必要があります。

何故ならば、ミサ曲ロ短調という音楽は存在しないと言う意見もあるらしくて、「後世に言うロ短調ミサ」という皮肉な補足説明をつけている音楽学者もいます。
その主張の大要は以下の通りです。

バッハは別々の4曲を作曲し、それをたまたま一冊の本に製本しただけだ。それを、後世の人が勝手に全体を1曲と勘違いして「ミサ曲ロ短調」と名付けただけだ、というのです。
別々の4曲というのは以下の通りです。


  1. ミサ

  2. ニケア信教

  3. サンクトゥス

  4. ホサナ、ベネディクトゥス、アニュス・デイ、ドナ・ノビス・バケム



確かに、4曲がまったくバラバラかはさておき、1のミサと、2のニケア信教以下で、はっきりと前半・後半に分かれます。
私はこういう学問的なことは苦手なのですが、成立時期も大きく異なっているそうです。

前半のミサの成立時期ははっきりと分かっています。
1733年7月27日の日付で、ザクセン侯に献呈されています。それも、現職のライプティッヒでの不満を訴えて、ドレスデン宮廷での地位を求める請願書とともに献呈されているのです。

ライプティッヒの教会はプロテスタントですが、ザクセン侯のドレスデン宮廷はカソリックです。
この辺の宗教的な事情はよく分からないのですが、バッハが献呈したミサ曲は基本的にプロテスタントの様式にのっとったものでした。
そのため、この曲が実際に演奏されたのかどうかは判明していません。

それに対して、後半に当たるニケア信教以下の部分は、いつ成立したのかがよく分かっていません。

筆跡を見る限りは、バッハの最晩年の特徴である手の震えがはっきりしているので、自筆の総譜が書かれたのは間違いなく1750年頃だと確定ができます。
もちろん、だからといってそれがイコール成立時期だというわけではありません。

おそらくは、1747年から50年にかけての時期だろうと推測されていますが、そうなると、これはバッハにとっては最晩年の、そして最後のまとまった教会音楽だということになります。
それだけに、この前半部分と後半部分が、果たして合体して一つの巨大な作品を構成しているのか、それとも、これらはまったく別々の作品で、これを一つにまとめて「ミサ曲ロ短調」と名付けたのは、後世の人間の誤りなのか、議論の分かれるところとなっているのす。

ここで面白いなと思うのは、この解釈に宗教的な立場が反映することです。

ここから、ミサ曲ロ短調はプロテスタントの音楽なのか、カソリックの音楽なのかという論争が起こります。
実は、全体で一つの作品だと見れば、キリエから始まって最後のドナ・ノビス・バケムまででカソリックのミサ曲としての要件を満たしているのです。

ですから、プロテスタント側は、この曲をたんなる独立した4曲の寄せ集めだという立場をとることになります。
カソリックサイドは当然のことながら、これを一つの曲だととらえます。

それにしても感心させられるのはバッハのしたたかさです。

プロテスタントの教会で働きながら、カソリックの君主に就職活動を行う。その資料として送った作品は、表面はプロテスタントの形式でありながら、後から必要部分を付け足せば、いつでもカソリックの形式に変換ができる。
そして、再度の一押し(彼は、1736年に再度請願書を提出している)で、現実にドレスデン宮廷に転職をしていくのです。

これをしたたかと言わずしてなんと言いましょうか。

では、お前はどう考えているのかということになります。

学者はバッハの筆跡や紙の質などという「物的証拠」(?)に基づいて難しい論議をしているようですが、そんなことは私には分かりません。興味もありません。(^^)v

しかし、普通に演奏をして2時間半はかかるこの大作を聞いてみて、強い統一感を感じるのは事実です。
木に竹をつないだような不自然さはまったく感じません。

きわめて感覚的な話で申し訳ないのですが、私はやはりこれは一つのまとまった音楽作品だと感じます。

カソリックのミサ曲は長い歴史を持っています。
ジョスカン・デュプレやパレストリーナの時代から、多くの優れた業績が積み重ねられてきた分野でもあります。
バッハがその最晩年において、そのような長い歴史に、一つの解答になるような作品をこの世に提出しようとした、と考えるのが最も自然なように思います。

その時に、かつて自分が就職活動のために渾身の力を込めて作り上げたプロテスタント様式のミサのことが頭にあったはずです。
それは、手直しを加えて必要部分を追加すれば、カソリック様式に変換可能な作品として作られていました。

おそらくは1747年以降に書かれた後半部分は、この前半のミサに続くカソリック様式のミサ曲の一部として作成されたはずで。
実際に聞いてみて感じる統一感が、全くの偶然の産物だという方が逆に不自然ではないでしょうか。
すくなくとも私にはそのように聞こえる作品ですが、みなさんはどうでしょうか。


伝統的なバッハ演奏には戦争に傷ついた多くの人々の魂に寄り添おうとするる優しさが満ちています


この録音をアップするべきか否かかなり迷ったのですが、その歴史的価値を考えればアップすべきだろうと考えた次第です。
迷った理由は録音の悪さという一点につきます。ただし、この悪さについては後で詳しくふれます。

そこで、まず最初に、アップすべきだと判断した「歴史的価値」から述べていきたいと思います。
この録音が広く世に知られるようになったのはTahraが2010年にCD盤として復刻したからなのですが、原盤はアメリカの「ROYALE」というレーベルが発行したものでした。

実はこの「ROYALE」なるレーベルが実に怪しい存在であり、その「怪しさ」にある種の「歴史的価値」を見いだしてしまうのです。
なにせ、その「ROYALE」が発売したレコードには「ハンス・シュミット=イッセルシュテット指揮 北ドイツ放送交響楽団」ではなくて、「ヨーゼフ・バルツァー(Joseph Balzer)指揮 ベルリン交響楽団」とクレジットされているのです。

この「ROYALE」なるレーベルは1939年に設立されたレーベルなのですが、ベルリンに本拠を置くUltraphonというレーベルが録音したものをアメリカ国内で再発行していました。
ところが、40年代にはいると第2次大戦の影響でアメリカ国内には反ナチス、反ドイツの機運が高まってきて、「Berliner Philharmoniker(ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)」とか「Orchester Der Deutschen Oper Berlin(ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団)」と言う名前を使うことが難しくなってしまったのです。

しかし、もともとがUltraphonが録音したものを再発行するだけの会社でしたから、それに変わる別のレコードを用意することも出来ませんでした。
そこで、編み出されたのが名前を偽ってドイツとは関係ない振りをして発行するという「掟破り」の手法だったのです。

その後、専属契約の関係で名前を明確に出せないときに変名や偽名を使う「幽霊指揮者」「幽霊オーケストラ」というものが登場するようになるのですが、この「ROYALE」こそはその様な「幽霊」の元祖たる存在だったのです。
そして、驚くのは、第2次大戦が終わっても「ROYALE」はその手法を使い続けるのです。

このイッセルシュテットによるバッハのロ短調ミサは1950年に録音されているのですが、「ROYALE」は「ヨーゼフ・バルツァー(Joseph Balzer)指揮 ベルリン交響楽団」として発行しているのです。
この背景には、戦争が終わってもアメリカ国内には根深い反ナチス、反ドイツの感情が残っていたことを示唆します。

余談になりますが、1960年代に入って飛ぶ鳥を落とす勢いだったカラヤンも、アメリカでのレコード販売数が伸びないことに不満を感じていました。そして、彼がドイツ・グラモフォンに移籍するときの最大の懸念が、ドイツ・グラモフォンのアメリカ国内での販売網の弱さだったと伝えられています。

そう言う意味では、このレコードの「ヨーゼフ・バルツァー(Joseph Balzer)指揮 ベルリン交響楽団」というクレジットからは、その様な戦争がもたらした複雑な感情が刻み込まれているのです。

しかしながら、もう一つ注目したいのは、その様な怪しげなレーベルであるにもかかわらずバッハのロ短調ミサという大作をレコーディングして発売したという事実です。
言うまでもなく、この背景には長時間収録が可能となったLP盤の登場があります。

逆に言えば、長時間収録が可能となったLP盤に相応しい録音が求められていて、その様な需要に応えて「ROYALE」のようなレーベルでさえこのような録音に取り組めるような時代となったのです。
とは言え、録音そのものはヨーロッパに丸投げをして、「ROYALE」は発行業務だけを行っただけなのでしょうが、そこからは50年代におけるアメリカとヨーロッパの力関係のようなもがはっきりと見えてきます。つまりは、アメリカは「強いドル」を背景にヨーロッパの音楽を買いたたいていったのです。

そして、その様な録音だったからでしょうか、ヨーロッパの音楽家達は特別な気負いもなく淡々と自分たちがいつもやっているようなスタイルで音楽に取りくんいます。
そこには、録音という行為に対する特別な思い入れや気合いなどはないかわりに、録音という行為に対する特別な気負いや緊張もなく、ただ自分たちがやっている音楽をいつもと同じように演奏しているのです。

そして、それがバッハ演奏という事に限ってみれば、そこにはリヒター以前と言っていい伝統的なバッハの姿が刻み込まれることになったのです。
リヒターのバッハを聞きなれた耳からすればあまりにものんびりとした音楽に聞こえますし、昨今のピリオド演奏の洗礼を受けた耳からすればあり得ないほどに鈍重なバッハです。

しかし、このように遅めのテンポでじっくりと、そしてがっちりと歌い上げられていくバッハには、戦争に傷ついた多くの人々の魂に寄り添おうとする優しさが満ちています。
私がこの録音をアップすべきだろうと判断したのは、その様な伝統的なバッハ演奏に残すべき歴史的価値があると思ったからです。

しかしながら、驚かされるのはは、この録音はわずか2日間で仕上げられていることです。
おそらくはほぼ一発録りだったと思われます。
そして、録音という行為に対する「いい加減さ」というものは、音楽面においては時にプラスにはたらくこともあるのですが、録音のクオリティという点に関しては問題を残してしまいます。

1950年と言えばすでにテープ録音が本格的に導入されていますから、この録音のクオリティは時代の制約と言うよりは録音に対する姿勢がもたらしたものと言わざるを得ないものです。

確かに、オーケストラと合唱、ソリストを含んだ音楽を録音するというのは大変な難事であることは事実なのですが、合唱の響きは混濁しソリストの声も時には遠くなるというのは、エンジニアの判断と対処で改善は可能です。

しかしながら、聞き進んでいくうちに、そう言う合唱のアンサンブルと言うことに関してはイッセルシュテット自身もあまり配慮を払っていないことに気づかされてきます。言ってみれば、それが普通のバッハなのです。
そして、録音会場で鳴り響いている合唱が最初から混濁していたならば、エンジニアとプロデューサーに出来ることは演奏をストップさせてもう一度やり直しをさせるだけです。

しかし、わずか2日間のセッションではそんな事は不可能です。
イッセルシュテット達は自分たちのバッハを演奏するだけであり、録音陣はそれを録音するだけで、結果として「伝統」という得体の知れないものが色あせた昆虫標本のようにレコードに刻まれたのです。
しかし、そうであっても、そこには傷ついた人の心に寄り添う暖かさと優しさに溢れていることもまた事実なのです。