クラシック音楽へのおさそい〜Blue Sky Label〜

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ブラームス:交響曲第3番 ヘ長調 作品90

カール・ベーム指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 1953年6月録音

  1. Brahms:Symphony No.3 in F major, Op.90 [1.Allegro con brio]
  2. Brahms:Symphony No.3 in F major, Op.90 [2.Andante]
  3. Brahms:Symphony No.3 in F major, Op.90 [3.Poco allegretto]
  4. Brahms:Symphony No.3 in F major, Op.90 [4.Allegro]

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秋のシンフォニー

長らくブラームスの音楽が苦手だったのですが、その中でもこの第3番のシンフォニーはとりわけ苦手でした。
理由は簡単で、最終楽章になると眠ってしまうのです(^^;

今でこそ曲の最後がピアニシモで消えるように終わるというのは珍しくはないですが、ブラームスの時代にあってはかなり勇気のいることだったのではないでしょうか。某有名指揮者が日本の聴衆のことを「最初と最後だけドカーンとぶちかませばブラボーがとんでくる」と言い放っていましたが、確かに最後で華々しく盛り上がると聞き手にとってはそれなりの満足感が得られることは事実です。

そういうあざとい演奏効果をねらうことが不可能なだけに、演奏する側にとっても難しい作品だといえます。
第1楽章の勇壮な音楽ゆえにか、「ブラームスの英雄交響曲」と言われたりもするのに、また、第3楽章の「男の哀愁」が滲み出すような音楽も素敵なのに、「どうして最終楽章がこうなのよ?」と、いつも疑問に思っていました。

そんな時にふと気がついたのが、これは「秋のシンフォニー」だという思いです。(あー、また文学的解釈が始まったとあきれている人もいるでしょうが、まあおつきあいください)

この作品、実に明るく、そして華々しく開始されます。しかし、その明るさや華々しさが音楽が進むにつれてどんどん暗くなっていきます。明から暗へ、そして内へ内へと音楽は沈潜していきます。
そういう意味で、これは春でもなく夏でもなく、また枯れ果てた冬でもなく、盛りを過ぎて滅びへと向かっていく秋の音楽だと気づかされます。
そして、最終楽章で消えゆくように奏されるのは第一楽章の第1主題です。もちろん夏の盛りの華やかさではなく、静かに回想するように全曲を締めくくります。

モネが「目」であり、ドビュッシーが「耳」だとするならば、ベームもまた「耳」だった


ベームのような演奏を聞いていると、これに変わりうるものはいくらでもあるような気がします。
もちろん、だからといってそれは凡庸な演奏だというわけではなくて、それは疑いもなくベートーベンやブラームスを強く感じさせてくれる立派な音楽になっています。
しかし、膨大に積み重なった過去の録音の中から自己を主張することの少ない音楽であることも事実です。

口幅ったい言い方になるのですが、この世界には聞けばすぐに了解できる強い個性と、ある程度経験を積んだ耳でなければ気付きにくい個性とが存在します。
ベームは典型的な後者の立場にある指揮者です。

そして、この国でフルトヴェングラーやカラヤン、バーンスタインなどの人気が高いのは、彼らが典型的な前者の立場にある指揮者だからでしょう。とりわけ、フルトヴェングラーなどに関して言えばその深い「精神性」云々が言われるのですが、その「精神性」がきわめて分かりやすい形で提示されているところにこそフルトヴェングラーの強みがあったのです。

この「精神性」という言葉は実に曖昧なものであって、どこかで一度じっくりと腰を据えて考えてみなければいけないとは思うのです。
それでも、フルトヴェングラーのような「分かりやすい形で提示された」ものだけが「精神性」だと思ってしまうと、それは間違いなく大きな誤りを招きます。

ベームという指揮者は徹底的に実務的な指揮者です。
それを「職人」という言葉に置き換えてもいいのかも知れませんが、個人的には「実務的な指揮者」の方がしっくりと来ます。

ベームという人はオーケストラの前に立つ前から確固とした音楽のイメージが頭の中に存在している人だったようです。そして、そのイメージというのは実に細かい部分までもがクリアだったようで、ホンのちょっとしたアクセントやデュナーミク、そしてテンポの揺れのようなものまでが一切の曖昧さもなしに頭の中に存在していたようです。

ですから、ベームのリハーサルは実にねちっこいものでした。
ベームという人は、目の前で鳴り響いているオケの音楽と、頭の中の音楽とを正確に比較検証できる並外れて優れた耳を持っていました。

モネが「目」であり、ドビュッシーが「耳」だとするならば、ベームもまた「耳」だったのです。

彼は些細な部分の齟齬も見逃さず、執拗に指示を出し続けます。
その指示は一切の精神的な言葉は含まれず、ひたすら実務的で厳しいものだったようです。

ですから、練習嫌いで有名なウィーンフィルのなかにはそう言うリハーサルに反発するものもいたようですが、しかし、その指示は常に明確でクリアであり、その結果として仕上がる音楽は立派なものだったのですから、その事を高く評価するものも少なくなかったのです。

おそらく、ベームの魅力として真っ先に数え上げられるのは、ドイツ古典派の真髄とも言うべき強固な構築性を土台としていることです。
それがそれがもっとも効果を発揮するのは音楽の結論としてのフィナーレに向けた作り方です。
その頂点に向けた歩みに内包された強い説得力は見事としか言いようがありません。

しかし、ベームが本当に素晴らしいのは、そこにしなやかな歌心をさりげなく、しかしこの上もなく効果的に表現していることです。
それは一見すれば何もしていないように見えながら、音楽にしなやかな生命力を与えていて、その事が最初に述べた頂点に向けた音楽の歩みに対して説得力を与えているのです。

そして、最晩年のベームがつまらなくなってしまったのは、おそらくは脳卒中によって身体の自由がきかなくなったためだと思うのですが、そう言う細部のしなやかさをオケに伝えることが出来なくなってしまったからでしょう。
それは、ほんの些細なことのように思えます。
しかし、そのちょっとしたテンポの上げ下げのようなものが実現できなくなった途端に音楽は明らかに硬直していくのが残酷なまでによく分かります。

大袈裟な身振りや強いエモーショナルというものは、年を重ねて衰えてきても、それがまた別の個性のように感じてもらえる「強み」があります。
しかし、ベームのような徹底的な「実務」によって成り立っている音楽は、その「実務」の欠落が些細なものであっても、その些細な欠落は間違いなく「音楽」そのものを大きく損なってしまうのです。

桜という花は満開を過ぎて散り始めた頃がもっとも美しいのに対して、梅の花は散り始めると痛々しいまでの欠落を感じさせます。
ベームという指揮者もまた、そう言う「梅の花」のような音楽家ですた。

そう考えれば、この50年代の録音こそは満開の梅の花のような潔さと剄さを持った音楽だっと言えます。