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ベートーベン:弦楽四重奏曲第10番 変ホ長調 OP.74 「ハープ」

ヴェーグ弦楽四重奏団:1952年録音

  1. ベートーベン:弦楽四重奏曲第10番 変ホ長調 OP.74 「ハープ」 「第1楽章」
  2. ベートーベン:弦楽四重奏曲第10番 変ホ長調 OP.74 「ハープ」 「第2楽章」
  3. ベートーベン:弦楽四重奏曲第10番 変ホ長調 OP.74 「ハープ」 「第3楽章」
  4. ベートーベン:弦楽四重奏曲第10番 変ホ長調 OP.74 「ハープ」 「第4楽章」


ベートーベンの心の内面をたどる~中期の5作品

ラズモフスキー四重奏曲


作品番号18で6曲の弦楽四重奏曲を完成させた後、このジャンルにおいてベートーベンは5年間の沈黙に入ります。その5年の間に「ハイリゲンシュタトの遺書」で有名な「危機」を乗り越えて、真にベートーベン的な世界を切り開く「傑作の森」の世界に踏みいります。交響曲の分野では「エロイカ」を書き、ピアノソナタでは「ワルトシュタイン」や「アパショナータ」を書き、ヴァイオリン・ソナタの分野では「クロイツェル」を書き上げます。そして、交響曲の4番・5番・6番という彼の創作活動の中核といえるような作品が生み出されようとする中で、「ラズモフスキー四重奏曲」と呼ばれる3つの弦楽四重奏曲が産み落とされたのです。
この5年は、弦楽四重奏曲のジャンルにおいてもベートーベンを大きく飛躍させました。ハイドンやモーツァルトの継承者としての姿を明確に刻印していた初期作品とはことなり、ここではその様な足跡を探し出すことさえ困難です。特にこのラズモフスキー四重奏においては、モーツァルトやハイドンが書いた弦楽四重奏曲とは全く異なったジャンルの音楽を聞いているかのような錯覚に陥るほどに相貌の異なった音楽が立ち上がっています。
そして、それ故にと言うべきか、これらの作品は初演時においてはベートーベンの悪い冗談だとして笑いがもれるほどに不評だったと伝えられています。

では、何が6つの初期作品とラズモフスキーの3作品を隔てているのでしょうか?
まず誰でも感じ取ることができるのはその「ガタイ」の大きさでしょう。ハイドンやモーツァルト、そして初期の6作品はどこかのサロンで演奏されるに相応しい「ガタイ」ですが、ラズモフスキーはコンサートホールに集まった多くの聴衆の心を揺さぶるに足るだけの「ガタイ」の大きさを持っています。そして、その「ガタイ」の大きさは作品の規模の大きさ(7番の第1楽章は400小節に達します)だけでなく、作品の構造が限界まで考え抜かれた複雑さと緻密さを持っていることと、それを実現するために個々の楽器の表現能力を限界まで求めたことに起因しています。その結果として、4つの弦楽器はそれぞれの独自性を主張しながらも響きとしてはそれらの楽器の響きが緻密に重ね合わされることで、この組み合わせ以外では実現できない美しくて広がりのある響きが実現していることです。ただし、この「響き」はオーディオ装置ではなかなかに再現が難しくて、特にこのラズモフスキーなどでは時にエキセントリックに響いてしまうのですが、すぐれたカルテットの演奏をすぐれたホールで聞くと夢のように美しい響きに陶然とさせられます。

弦楽四重奏曲第7番 ヘ長調 OP.59-1「ラズモフスキー第1番」
壮麗で雄大な第1楽章と悲哀の思いと強い緊張感に満たされた第3楽章の対比が印象的な作品です。ラズモフスキーの3曲の中では最も規模の大きな作品であり、音楽の性格も外へ外へと広がっていくような大きさに満ちています。

弦楽四重奏曲第8番 ホ短調 OP.59-2「ラズモフスキー第2番」
この作品はラズモフスキーの第1番とは対照的に内へ内へと沈み込んでいくような雰囲気に満ちています。特に、モルト・アダージョと題された第2楽章はベートーベン自身が「深い感情を持って演奏するように」と注意書きをしたためたように、人間の心の中に潜む深い感情を表現しています。

弦楽四重奏曲第9番 ハ長調 OP.59-3「ラズモフスキー第3番」
この作品の終楽章はフーガの技法が駆使されていて、これぞベートーベンといえる堂々たる音楽に仕上がっています。そして、その終結部はこの4つの楽器で実現できる最高のド迫力だと言い切っていいでしょう。

過渡期の2作品


この分野における「傑作の森」を代表するラズモフスキーの3曲が書かれるとベートーベンは再び沈黙します。おそらくのこの時期のベートーベンというのは「出力」に次ぐ「出力」だったのでしょう。己の中にたぎる「何者」かを次々と「音楽」という形ではき出し続けた時期だったといえます。
ですから、この「分野」においてはとりあえずラズモフスキーの3曲で全て吐き出し尽くしたという思いがあったのでしょう。しばらくの沈黙の後に作り出された2曲は、ラズモフスキーと比べればはるかにこぢんまりとしていて、音楽の流れも肩をいからせたところは後退して自然体になっています。しかし、後期の作品に共通する深い瞑想性を獲得するまでには至っていませんから、これを中期と後期の過渡期の作品と見るのが一般的となっています。

弦楽四重奏曲第10番 変ホ長調 OP.74「ハープ」
第1楽章の至る所であらわれるピチカートがハープの音色を連想させることからこのニックネームがつけられています。
この作品の一番の聞き所は、ラズモフスキーで行き着くところまで行き着いたテンションの高さが、一転して自然体に戻る余裕を聞き取るところにあります。ですから、ラズモフスキー第3番のぶち切れるような終結部を聞いた後にこの作品を続けて聞くと得も言われぬ「味わい」があったりします。(^^;

弦楽四重奏曲第11番 ヘ短調OP.95「セリオーソ」
第10番「ハープ」で縮小した規模は、この「セリオーソ」でさらに縮んでいきます。もうこの作品からは中期の「驀進するベートーベン」は最終楽章の終結部にわずかばかりかぎ取ることができるぐらいで、その他の部分はベートーベン自身が名付けた「セリオーソ」という名前通りにどこか「気むずかしい」表情でおおわれています。

優雅さと品の良さ


シャーンドル・ヴェーグと言う名前が始めて私の視野に入ってきたのはカメラータ・ザルツブルクの指揮者としてでした。とりわけ、そのコンビによるモーツァルトのディヴェルティメント集の録音は、今も、心がいささか窮屈になってきたときには聞いてみたくなる演奏です。
決して急ぐことなく、ゆったりと、そしてある種の優雅さを失うことのない演奏を聴くと鬱屈していた心も解きほぐされて、楽に呼吸が出来るようになるのです。
それから、同じくモーツァルトの初期の交響曲も、このコンビでよく聞きました。
この初期交響曲の録音はディヴェルティメントほどには話題にはならなかったのですが、録音そのものが決して多くない作品なので、これもまたよく聞いた録音でした。

ですから、私にとってのシャーンドル・ヴェーグのイメージは、才能溢れる若き学生たちから慕われる老巨匠というものでした。
ただし、若い頃は何をしていたのかはあまりよく分からないという存在でもありました。

シャーンドル・ヴェーグが現役のソリストとしてバリバリ活躍していたホームグラウンドは室内楽の世界、特に力を注いでいたのがカルテットの世界でした。
彼は1935年にハンガリー弦楽四重奏団を結成してその第1ヴァイオリンの席に座るのですが、やがてその席をゾルターン・セーケイに譲り、自らはセカンドに回ります。ですから、このハンガリー四重奏団はセーケイの名前と結びつけて記憶されることになります。

このハンガリー四重奏団が戦争の影響で活動の本拠をオランダに移すと、ヴェーグはハンガリーに残ることを選んで、新しく自らの名を冠したヴェーグ四重奏団を結成します。そして、戦後ハンガリーから亡命したあとも彼の活動の拠点はこの四重奏団であり続け、1970年代の半ば頃までその演奏活動が続けられました。
そして、その活動に一つの区切りをつけたあとに引き受けたのがカメラータ・ザルツブルクの指揮者だったのです。

ヴェーグ四重奏団はその実力が高く評価されながら、同時代の他の弦楽四重奏団と較べると認知度が今ひとつ低いように感じます。ですから、指揮者としてのヴェーグしか知らない人も少なくないように見えます。
調べてみると、ベートーベンの弦楽四重奏曲の全曲録音を50年代と70年代の2回にわたって行っています。ベートーベンの弦楽四重奏曲ともなれば1回全曲録音を行うだけでも大変なものなのですから、それを2回も行っているというのは、彼らがいかに高く評価されていたかの証しだと言えます。
ただし、その録音を聞いていると、結果としての認知度が何故に低いのかも分かるような気がします。

一言で言えば欲がないのです。
音楽は何処まで行っても優雅で品がいいのですが、売れるがための押し出しと言うことに関してはいささかインパクトが低いのも事実です。

やはり、芸の世界というのは前に出てなんぼ、と言う面は否定できません。カラヤンやバーンスタインのように、そう言う押し出しに関しても抜かりのない人は記憶に残りやすいのですが、ヴェーグという人はそう言うタイプの人間からは最も遠い位置にいたのかもしれません。

この52年に集中的に録音された演奏を聴くと、そこにあるのは昔も今も、そして未来に向かってもこうやって私たちはベートーベンを演奏していくんだという思いが伝わってきます。

彼がかつて在籍したハンガリー四重奏団も同じ時期に全曲録音をしているのですが、そこでは「ベートーベンのスコアをもう一度徹底的に洗い出し、その研究の成果を現実の演奏として世に問う」という「売り」がありました。
同じく、ブダペスト弦楽四重奏団も全く同じ時期に録音をしているのですが、そこでも、この時代を席巻し始めた「新即物主義」に基づいたベートーベンの再構築という「売り」がありました。

しかし、ヴェーグによるベートーベンにはその様な目新しい「売り」はなく、知的に音楽を作り上げながらも、その音楽には古き良き時代の優雅さと品の良さが失われることはありません。確かに、楽譜を蔑ろにするような演奏でないことは事実なのですが、だからといって即物的な乾いた演奏に陥ることは慎重に避けられています。
そこでヴェーグが一番大切にしているのは、ベートーベンという男の内面に渦巻いていたであろう感情であり、そう言う主情的な側面により強く焦点を当てた演奏なのです。

その意味では古いと言えば古いタイプの演奏なのでしょうが、そう言う演奏に居心地の良さを感じるのも年を重ねたせいなのかもしれません。