クラシック音楽へのおさそい〜Blue Sky Label〜


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フランク:ヴァイオリン・ソナタ イ長調


(vn)クリスチャン・フェラス (P)ピエール・バルビゼ 1957年5月15日~19日をダウンロード

  1. フランク:ヴァイオリン・ソナタ イ長調 「第1楽章」
  2. フランク:ヴァイオリン・ソナタ イ長調 「第2楽章」
  3. フランク:ヴァイオリン・ソナタ イ長調 「第3楽章」
  4. フランク:ヴァイオリン・ソナタ イ長調 「第4楽章」

ヴァイオリンソナタという形式は不思議な形式です。



もとはヴァイオリン助奏付きのピアノソナタと言った方がいいようなスタイルでした。
しかし、ヴァイオリンが楽器としても完成され、さらに演奏者の能力も高まるにつれて、次第に二つの楽器が対等にわたりあえるようになっていきます。

この移り変わりは、モーツァルトの一連のヴァイオリンソナタを聞いていくとよく分かります。
初期の作品はヴァイオリンはおずおずとピアノに寄り添うだけだったのが、後期の作品になると二つの楽器が対等に自己主張をするようになり素晴らしい世界を展開してくれます。

ベートーベンはヴァイオリンが持つ表現力をさらに押し広げ、時にはヴァイオリンがピアノを従えて素晴らしい妙技を展開するようになります。
ヴァイオリンが自己主張する傾向はロマン派になるとさらに押し進められ、ここで聞けるフランクのヴァイオリンソナタはその頂点をなすものの一つです。

それにしても、これほどまでにロマン派らしいヴァイオリンソナタが他にあるでしょうか!まさに、ヴァイオリンという楽器の持つ妖艶な魅力をいかんなく振りまいています。

もともとユング君はこのような室内楽のジャンルはあまりにも渋すぎてどうも苦手でした。
でも、初めてフランクのヴァイオリンソナタを聞いたときは、「室内楽は渋いなんて誰が言ったの?」という感じでたちまち大好きになってしまいました。
誰だったでしょうか、この曲を聞くと、匂い立つような貴婦人が風に吹かれて浜辺に立っている姿がイメージされると言った人がいました。
まさにその通りです。

「どうも私は室内楽は苦手だ!」と言う方がいましたらぜひ一度お聞きください。
そんな先入観なんかは吹っ飛ばしてくれることだけは保証します。


フェラス24歳の自画像のような音楽


1982年の9月14日に自宅アパートの10階から投身自殺して一人のヴァイオリニストが亡くなってから30年以上の時間が経過しました。このヴァイオリニストのことを今も覚えている人はどれほどいるでしょうか?
もしかしたら、クリスチャン・フェラスという名前を出されても、それって誰?と言う人も少なくないのではないでしょうか。

若くして才能を発揮し、幼少期にはカペーやエネスコに学び、わずか10歳にしてポール・パレーの指揮するパドルー管弦楽団と共演して演奏家デビューを果たします。そして、その後優勝したスヘフェニンヘン国際コンクールにおいてニューインの知遇を得、さらには1位なしの2位だったロン=ティボー国際コンクールで、室内楽における生涯のパートナーとなるピアニスト、ピエール・バルビゼと知り合います。
こうしてみると、彼の若い時代は、その才能に見合うように、幸運は常に微笑みかけてくれていました。

しかし、その幸運は、フェラスにとってはあくまでも表面的なものでしかなかったことが、この57年に録音されたフランクとフォーレのヴァイオリンソナタを聴けば気づかされます。
とりわけ、このフランクのソナタは、世の一般的な演奏と較べるとかなり雰囲気が異なります。

私はこの曲を聞くと、匂い立つような貴婦人が風に吹かれて浜辺に立っている姿がイメージされます。それが普通です。
ところが、このフェラスとバルビエの演奏からは、何処を探してもその様な貴婦人の姿は浮かび上がってきません。見えてくるのは、神経質で青白い顔をした青年の姿です。

フェラスの演奏で聞くと、何故か、あちこちで音楽が不安定になる場面に出会います。それは厳密に言えば、音程がいささか不安定になっているのでしょうが、言うまでもなく、その様な不安定さはフェラスの技巧上の問題に起因するはずがありません。この才能溢れる若きヴァイオリニストが、技巧上の問題で音程を外すなどと言うことはあり得ないのです。
明らかに、この不安定さは意図されたものです。

おそらく、この演奏はフェラスの心に映った音楽であり、それは徹底的に主観的な音楽になっています。ですから、フランクの音楽の中にフェラスが不安や疑問や躊躇いを感じたならば、それに呼応するように音楽もまた不安で躊躇いを含んだものになっていくのです。
そして、その事は、フランクほどではないにしても、フォーレのソナタに置いても事情はそれほど変わることはありません。

結果として、この二つのソナタはまるで24歳のフェラスの自画像のような音楽になっています。
そして、それ故に、一般的な意味での名演・名盤としてチョイスはされないのでしょうが、私個人としてはとても魅力的な演奏でした。

いわゆる、オンリー・ワンとしての魅力が溢れています。

そして、そのような特異な表現が恣意的なものに陥っていないのは、バルビエのピアノが「枠」を作っているからです。
いや、それは「枠」と言うよりは「舞台」といった方がいいのかもしれません。

誰もが納得できる舞台を作っておけば、後はそこでフェラスが泣こうが喚こうが、それはそれで一つのお芝居としての説得力を失うことはありません。
それにしても、バルビエというピアニストの名前は記憶片隅にほんの少しだけ存在するだけだったのですが、その作り出す音楽の厳格にして立派なことには驚かされました。

そう言えば、フェラスが飛び降り自殺をする前の、最後の演奏会でのパートナーもまたバルビエでした。この悲しき青年の人生において、本当の意味での幸運は、このバルビエとの出会いだったのかもしれません。