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モーツァルト:弦楽四重奏曲 第15番 ニ短調 K.421

ウィーン・コンツェルトハウス弦楽四重奏団 1952年録音

  1. モーツァルト:弦楽四重奏曲 第15番 ニ短調 K.421「第1楽章」
  2. モーツァルト:弦楽四重奏曲 第15番 ニ短調 K.421「第2楽章」
  3. モーツァルト:弦楽四重奏曲 第15番 ニ短調 K.421「第3楽章」
  4. モーツァルト:弦楽四重奏曲 第15番 ニ短調 K.421「第4楽章」


モーツァルトの弦楽四重奏曲の簡単なスケッチ

私にはモーツァルトの弦楽四重奏曲を、その一つ一つについて詳細に論じる能力はありませんので、(^^;、ここではその全体像のスケッチでお茶を濁すことにしたいと思います。

モーツァルトの四重奏曲は大きく分けて二つのグループに分かれるとアインシュタインは述べています。
まず、前半のグループに属するのは、1772年から73年にかけて作曲された15の作品です。アインシュタインはこれをさらに3つのグループに分けています。

前半のグループ

第1グループ:K136~K138

草稿には「ディヴェルティメント」と記されています。しかし、ディヴェルティメントには二つのメヌエットが必要なのに、これらの作品は一つのメヌエットも持っていません。ですから、この作品はディヴェルティメントと言うよりは、管楽器を欠いたシンフォニーのような作品となっています。
この時代の特徴としてそのあたりの名称はあまり確定的なものではなく、四重奏曲という分野もそれほどはっきりとした独立性を持ったものではなかったようです。現在ではこの3つの作品は四重奏曲の中に分類しないのが一般的ですが、アインシュタインはこれをモーツァルトの最初期の四重奏曲として分類しています。

第2グループ:K155~K160

ミラノへの旅行の途上か、ミラノで滞在中に作曲されたものなので「ミラノ四重奏曲」と呼ばれることがある作品です。そして、ディヴェルティメントと題された前の3つの作品と比べると、これらははるかに室内学的な緻密さにあふれた作品となっています。
アインシュタインは「モーツァルトは半年の間に四重奏曲作曲家として途方もない進歩をしたと言わなくてはならない」と述べています。
そして、これらの作品に後年の偉大な弦楽四重奏曲への前触れがあることを指摘しながら、「春が単に夏の前触れであるばかりでなく、それ自体としてはなはだ魅力的な季節であるように」これらの作品にも若きモーツァルトのかけがえのない魅力があふれている事を指摘しています。

第3グループ:K168~K173

1773年の二度目のウィーン滞在時に作曲されたために「ウィーン四重奏曲」と呼ばれる作品です。このウィーン滞在における最大の出来事は、ハイドンとの出会いであり、とりわけ作品番号17番と20番のそれぞれ6つの四重奏曲を知ったことです。
このハイドンとの出会いは天才と言われるモーツァルトにも多大な感銘を与え、同時に彼を圧倒したと言われています。それ故に、この時期に生み出された6つの四重奏曲は、その様なハイドンへの畏怖に圧倒されてモーツァルト本来の持ち味が十分に発揮されていない、どこか中途半端な作品になってしまっています。
アインシュタインもまた「モーツァルトは感銘に圧倒される。・・・しかし、それを完全に自分のものとすることが出来ない。模倣は明白である。」と言い切っています。
しかし、今までの「歌の国」であるイタリア的な作風から完全に脱却して、ウィーン的な「器楽の世界」へ転換していく大きな節目に立つ作品と言うことで、それはそれなりに大きな意義を持ったものだといえます。

さて、このジャンルの作品の創作はこの後に10年にもわたる空白期間を持つことになります。アインシュタインはこの空白期間を隔てて、これ以後に生み出された作品を後半のグループに分類しています。そして、この分類の仕方は今日では一般的なものとして是認されているようで、後期弦楽四重奏曲と言うときはこのグループの作品のことを言います。
そして、この後期の作品もまた3つのグループに分かれます。

後半のグループ

第1グループ:ハイドンセット

・弦楽四重奏曲第14番 ト長調 K.387
・弦楽四重奏曲第15番 ニ短調 K.421
・弦楽四重奏曲第16番 変ホ長調 K.428
・弦楽四重奏曲第17番「狩」 変ロ長調 K.458
・弦楽四重奏曲第18番 イ長調 K.464
・弦楽四重奏曲第19番「不協和音」 ハ長調 K.465

弦楽四重奏曲のことを「四人の賢者による対話」といったのだ誰だったでしょうか?しかし、最初から4つの楽器が対等の立場で繊細で緻密な対話を展開していたわけではありません。
ヴァイオリンが主導的な役割を果たし、チェロやヴィオラが通奏低音のような役割しかはたしていなかったこの形式の作品をその様な高みへと初めて引き上げたのはハイドンでした。しかし、その道のりはハイドンといえども決して簡単なものではなかったようです。
彼が1772年の発表した「太陽四重奏曲」は、若きモーツァルトを圧倒し、モーツァルトにK155~K160にいたるウィーン四重奏曲を書かせる動機となりました。しかし、それでさえも「4人の賢者による対話」と呼ぶには未だ不十分なスタイルのものでした。それ故に、それら一連の四重奏曲を発表した後には長い沈黙が必要でした。そして、それに呼応するようにモーツァルトもまたこのジャンルにおいては沈黙することになります。
しかし、ハイドンは9年間の沈黙を破って1781年に「ロシア四重奏曲」を発表します。この作品はハイドン自身が「全く新しい特別な方法」で作曲されたと自負しているように、まさにこの作品において弦楽四重奏曲は「4人の賢者による対話」と呼ぶに相応しいスタイルを獲得することになります。
そして、この作品との出会いはモーツァルトにとって「芸術家しての生涯における最も深い感銘の一つ(アインシュタイン)」となりました。
しかし10年の歳月はモーツァルトを完全に成熟した作曲家へと成長させており、このような時代を画するような作品に出会って深い感銘を受けても、今度はもはや圧倒されることはありませんでした。
以前のウィーン四重奏曲のようにハイドンの模倣として終わることはなく、ハイドンの手法をしっかりと自分の中で消化した上で、モーツァルト独自の世界を展開することになります。そうして生み出された6曲からなる弦楽四重奏曲が「ハイドンセット」です。

この6曲からなる弦楽四重奏曲は注文を受けて作曲されたものではなく、ハイドンの偉大な作品に接したモーツァルトがやむにやまれぬ衝動に突き動かされるようにして作曲されたものです。そして、ハイドンが提示した<全く新しい特別な方法>を自らの中に完全に消化するためには、天才モーツァルトといえども大変な苦労を強いられることになります。
オリジナルの楽譜といえども、まるで清書をしたかのように推敲の後も残さないモーツァルトが、破棄された数々の書き始めと、いたるところに改訂と削除の後を残して2年もの歳月をかけて完成させたのがハイドンセットです。モーツァルトの天才を知るものにとっては、献辞の中で述べている「長い、骨のおれる努力の結晶」と述べていることのなんという重み!!
しかし、そうして出来上がった作品には、その様な「労苦」の後を微塵も感じさせません。
本当のエンターテナーというものは、楽屋裏での汗と涙を決して舞台で感じさせずに、いとも易々と演じてみせるものですが、ここでのモーツァルトはまさにその様な超一流のエンターテナーを彷彿とさせるものがあります。
ハイドンを招いて行われた初めての演奏会を聞いた父レオポルドは、「なるほど、少し軽くなったが、すばらしいできだ」と述べているのです。
出来上がった作品からはいっさいの労苦と汗はきれいに洗い流している、そこにこそモーツァルトの天才が発揮されています。

第2グループ:ホフマイスター四重奏曲

・弦楽四重奏曲 第20番 ニ長調 K499

この作品の成立過程は詳しいことは分かっていないのですが、おそらくは友人であり、出版業者であるホフマイスターに対する債務返済の意味合いで作曲されたものといわれています。しかし、その様な動機にもかかわらず、また、たった1曲の単独の作品でありながら、アインシュタインは「孤独で立つに値するものである」と讃辞を送っています。そして、「この四重奏曲は厳粛であると同時に軽く、魅惑的な音響の多くの転換においてシューベルトの前触れとなっている。」という言葉にこの作品の全てがつまっているように思います。

第3グループ:プロイセン四重奏曲

・弦楽4重奏曲第21番 ニ長調 K.575
・弦楽4重奏曲第22番 変ロ長調 K.589
・弦楽4重奏曲第23番 ヘ長調 K.590

プロイセンの国王、フリードリヒからの依頼で作曲されたために「プロイセン四重奏曲」とよばれています。これはよく指摘されることですが、依頼主であるフリードリヒは素人として卓越したチェロ奏者であったために、この作品にはその様な王の腕前が存分に発揮できるようにチェロがまるで独奏楽器であるかのように活躍します。第2ヴァイオリンとヴィオラは後景へと退き、それらをバックにしてチェロが思う存分に活躍するように書かれています。
その意味で、モーツァルトの最晩年の作品であるにもかかわらず、室内楽としての緻密さや統一感という点においてハイドンセットに一歩譲ると言わざるを得ません。
しかし、それでもなお、ある意味では機会音楽のような制約を受けた作品であるにもかかわらず、そして、簡潔な構成であるにもかかわらず、その至るところから繊細な感情の揺らめきを感じ取ることができるところに、最晩年のモーツァルトの特徴をうかがうことが出来ます。

ウェストミンスターレーベルによる録音の概要


いささか煩わしいですが、ウェストミンスターレーベルによるモーツァルトの弦楽四重奏曲の録音を年代順に並べてみると以下のようになります。

1951年録音:アマデウス弦楽四重奏団


ハイドン四重奏曲

  1. 第16番 変ホ長調 K.428

  2. 第17番 変ロ長調 K.458「狩」

  3. 第18番 イ長調 K.464


プロシア王四重奏曲

  1. 第23番 ヘ長調 K.590


1952年録音:ウィーン・コンツェルトハウス弦楽四重奏団


ハイドン四重奏曲

  1. 第15番 ニ短調 K.421

  2. 第19番 ハ長調 K.465「不協和音」


1953年録音:バリリ弦楽四重奏団


ハイドン四重奏曲

  1. 第14番 ト長調 K.387「春」


プロシア王四重奏曲

  1. 第22番 変ロ長調 K.589


1954年録音:バリリ弦楽四重奏団


プロシア王四重奏曲

  1. 第21番 ニ長調 K.575


1955年録音:バリリ弦楽四重奏団



  1. 第20番 ニ長調 K.499「ホフマイスター」



  1. 第1番 ト長調 K.80「ロディ」


ミラノ四重奏曲

  1. 第2番 ニ長調 K.155

  2. 第3番 ト長調 K.156

  3. 第4番 ハ長調 K.157

  4. 第5番 ヘ長調 K.158

  5. 第6番 変ロ長調 K.159

  6. 第7番 変ホ長調 K.160


ウィーン四重奏曲

  1. 第8番 ヘ長調 K.168

  2. 第9番 イ長調 K.169

  3. 第10番 ハ長調 K.170

  4. 第11番 変ホ長調 K.171

  5. 第12番 変ロ長調 K.172

  6. 第13番 ニ短調 K.173



ウェストミンスター・レーベルにとって室内楽の録音は表看板でしたし、とりわけドイツ・オーストリア系の中核を占めるハイドン・モーツァルト・ベートーベン・シューベルトの録音は非常に重要でした。
今さら言うまでもないことですが、ベートーベンの弦楽四重奏曲に関してはウィーン・コンツェルトハウス弦楽四重奏団とバリリ弦楽四重奏団を使って2種類の全集を完成させています。シューベルトに関してはウィーン・コンツェルトハウス弦楽四重奏団を使って、これもまた全集を完成させています。
ハイドンに関してはさすがに全集とまではいきませんが、それでも主要な作品をウィーン・コンツェルトハウス弦楽四重奏団をつかって網羅しています。

つまり、それぞれのジャンルを一つの団体を使って網羅するというのが基本なのですが、何故かモーツァルトに関しては混成で仕上がっています。
これはあくまでも想像にしか過ぎませんが、当初はアマデウス弦楽四重奏団を使ってモーツァルトは完成させるつもりだったと思います。しかし、この両者の関係は何故かハイドンセットの3曲とプロシア王セットの1曲だけで終わってしまいます。理由は分かりませんが、私が調べた範囲では、この後アマデウス弦楽四重奏団はウェストミンスターでは録音をしていないように思います。

1948年にデビューしたアマデウス弦楽四重奏団は、50年代にはいると一気にメジャーな存在にのし上がっていきますから、ウェストミンスターのようなマイナーレーベルには興味が持てなくなったのかもしれません。さらに考えてみれば、彼らの根っこがウィーンにあったことは間違いないのですが、活動の拠点がロンドンであったこともお互いに不都合だったのかもしれません。
とは言え、切れてしまったものは仕方がありませんし、さらにモーツァルトの弦楽四重奏曲はレーベルとしてもコンプリートする必要のあるジャンルでした。

そこで、翌52年にレーベル起ち上げ時から関係のあったウィーン・コンツェルトハウス弦楽四重奏団にお願いしてハイドンセットの2曲を録音します。
しかし、この時期は、ウィーン・コンツェルトハウス弦楽四重奏団はシューベルトやベートーベンの全集を完成させるために奮闘している時期でしたから、そこへさらにモーツァルトを付け足すのはさらに難しかったのでしょう。彼らが残したのはこの2曲だけなのですが、全てが曲線で構成されたような「我らがモーツァルト」の音楽は他では絶対に聴けない類のものなので、残念と言えばいささか残念ではあります。

しかし、何度も繰り返しますが、レーベルとしてはモーツァルトはカタログには絶対必要です。
とりわけ、1956年はモーツァルトの生誕200年のメモリアルイヤーであり、そこに向けて世界中のレーベルがモーツァルトのカタログを充実させている中で、それはおそらく至上命題だったはずです。
そこで、おそらくは頼み込んだのでしょう。53年からはバリリ弦楽四重奏団を使っての録音が再開されます。

53年にはハイドンセットで1曲だけ残されていた第14番を録音します。
54年にもプロシア王セットで1曲だけ残されていた第21番を録音しています。

おそらく、こういう形でカタログの欠落をうめていく仕事はそれほど楽しいものとは思えないのですが、それでも決してクオリティが落ちないのがバリリという人間の偉いところです。
そして、1956年のモーツァルトイヤーを前にした55年には残された初期作品13曲と第20番のホフマイスターを録音してコンプリートを完成させます。このあたりのことは初期作品を紹介したときに述べたとおりです。

結果として、全集としてはいささか統一感に欠けるものとなったのですが、逆に見れば、モーツァルトの弦楽四重奏曲をリトマス試験紙として、50年代を代表する3つの室内楽団体の特徴が浮き彫りになる結果ともなっています。
バリリの気品とカンパー(ウィーン・コンツェルトハウス弦楽四重奏団)の芸人魂と較べると、ブレイニン(アマデウス弦楽四重奏団)はいささか特徴に乏しいと感じるのですが、まあ、そのあたりはいつものようにそれぞれの聞き手にゆだねるべき事でしょう。

ただ、ブレイニン達がこの時だけでもウィーンに腰を据えてモーツァルトの全集を完成させる時を持っていれば、彼らの将来も随分かわったかもしれないという気はします。
この団体の最後は、あらゆる事がブレイニンに任せきりとなり、80年代にはいるとお互いの結束も弱まって、音楽的にも緩みきったものとなってしまって痛々しい限りでした。
カルテットしてスタートしたばかりの時期に自分たちの音楽の根っこを見つめる事ができていれば、もしかしたらその後の展開も少しは変わったのかもしれません。