クラシック音楽へのおさそい〜Blue Sky Label〜


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マーラー:「さすらう若人の歌」

フルトヴェングラー指揮 (Br)フィッシャー=ディースカウ フィルハーモニア管弦楽団 1952年6月24日~25日録音

  1. マーラー:「さすらう若人の歌」 第1曲 「僕の愛しい人が嫁ぐとき」
  2. マーラー:「さすらう若人の歌」 第2曲 「今朝、野原を歩いた」
  3. マーラー:「さすらう若人の歌」 第3曲 「僕は灼熱のナイフを持っている」
  4. マーラー:「さすらう若人の歌」 第4曲 「二つの青い眼」


男はふられて強くなる!!

この歌曲集の日本語訳は一般的には「さすらう若者の歌」となっています。
これはドイツ語の「Lieder eines fahrenden Gesellen」の「Gesellen」を「若者」と訳したので「さすらう若者の歌」となっているのですが、さくいんの本質に関わる部分でこの「意訳」には少しばかり問題があります。

「Geselle」というドイツ語は、本来はドイツのマイスター制度における第2階層としての「職人」を意味する言葉です。よく知られているように、ドイツのマイスター制度は「Lehrling(見習い、徒弟)」「Geselle(職人)」「Meister(親方)」「Meister(親方)」の3段階からなるのが一般的です。
駆け出しの時代は「Meister」のもとで「Lehrlin」として腕を磨き、やがて「Geselle」となると国中を遍歴して様々な「Meister」のもとで腕を磨き、一人前の「Meister」を目指すというのがドイツのマイスター制度です。
しかし、基本的にこのような制度のない日本で「Geselle」を「遍歴職人」と訳してみても、この日本語の字面から受けるイメージはドイツにおける「Geselle」とは少なからず開きがあります。ですから、これをその様な変な日本語ではなくストレートに「若者」と訳したのはそれほど攻められないことも事実です。

ただ問題なのは、地方の歌劇場でのキャリアを積み上げながら、やがては大きな歌劇場の第1指揮者となることを目指していたマーラーの姿が「Geselle」という言葉に託されていたことが見落とされてしまう恐れがあることです。
そして、その見落としの裏返しとして、この作品のきっかけとなったマーラーの「失恋」の方にばかり目がいくことになり、結果としてこの歌曲集がまるで失恋歌としてだけ受け取られてしまう事になってしまったことです。

確かに、この作品にはカッセル時代に知り合った美貌の歌手ヨハンナ・リヒターとの苦い失恋が投影していることは事実です。

第1曲 僕の愛しい人が嫁ぐとき


愛しい人が婚礼をあげるとき、
幸せな婚礼をあげるとき、
私は喪に服す!
・・・



・・・歌うな! 咲くな!
春はもう過ぎたんだ!
歌はすべて終わった。


ここでは痛切な失恋の傷手が語られはじめます。

第2曲 今朝、野原を歩いた


そして、陽の光をあびて
たちまち、この世は輝きはじめた。
あらゆるものが音と色を得た
陽の光をあびて!
・・・



・・・
では、いまや私の幸せも始まったのだろうか?
いいや、いいや、私の望むものは
決して花開くことがない


自然が美しく花開いても、恋人を失った自分には二度と美しい花が開くことがないことを男は知ります。

第3曲 僕は灼熱のナイフを持っている


燃え盛るナイフが、
一本のナイフが胸の中に!
おお、痛い! ナイフは余りにも深々と
喜びと楽しみ一つ一つに突き刺さっている。
・・・


恋人を失った哀しみは一本のナイフのようにおのが胸に突き刺さり、その痛みは消えることはなく男を苦しめ続けます。

第4曲 二つの青い眼


二つの青い眼、
愛しい人のが、
私をこの
広い世界へと追いやった。
さあ、私は最愛の地に別れを告げなければ!・・・


男を捨てた二つの青い眼こそが、男を安住の地から追いやるのです。そして、ここから男の遍歴が始まるのですが、その時にこの男がただの若者ではなくて「Gesellen」であることに大きな意味があるのです。
マーラーもまた、この失恋の一つのバネとしてステップアップをしていくことになるのです。

誰を見ても美女に見える


歌曲はどうにも苦手でした。いや、これを過去形で書くのは正確さに欠けますね、今もなお、どうにも苦手です。
そして、苦手だと言うことは、同時に歌曲の演奏の善し悪しが分からないと言うことにつながります。

どういう事かというと、苦手だと言うことは裏を返せば、概ね何を聞いてもあまり楽しくないと言うことです。と言うことは、酷い演奏、もしくはそれほど良いとはされていない演奏・録音を聞いたりすると、それこそどうしようもないほどに退屈してしまうのです。まあ、これはいいでしょう。つまらないものがよりいっそうつまらなく聞こえるのですから。
困るのは、世間では素晴らしい演奏・録音をいわれているものを聞いても、これ間また概ね退屈してしまうので、結果として「これの何処がいいのか分からない!」という体たらくになってしまうのです。

つまりは良かろうが悪かろうが、またはそこそこ美人だろうが凄い美人だろうが結局はみんなブスに見えてしまうのです。・・・女性の方々へ、不適切な発言、ごめんなさい。m(_ _)m

ところが、そんな歌曲苦手な私でも、何故かこれだけは絶世の美人に見えてしまうのがリヒャルト・シュトラウスの「最後の4つの歌」でした。
そして、もう一つ、何故かそのコケティッシュな魅力にコロッと参ってしまったのがこの「さすらう若者の歌」でした。

どうもこの二人だけは、翳りがあるように見せながらどこか伸びやかな人づきあいの良さがあって、そして何よりも美しい旋律ラインをふんだんに持っているという点で魅力的な美女であります。
ただし、これもまた誰を見ても美女に見えるのですから、これもまた善し悪しの判断がつきかねるという点では何の進歩もないのです。

しかしながら、それではあまりにもまずいだろうと言うことで、この大好きな美女を各人どのように描いているのかを聞き比べてみました。選んだのはこの時代を代表する以下の3点です。


  1. Wilhelm Furtwangler:Philharmonica Orchestra (Br)Dietrich Fischer-Dieskau Recorded 24~25/6/1952

  2. Eduard van Beinum:Royal Concertgebouw Orchestra (Ms)Nan Merriman Recorded 3~8/12/1956

  3. Bruno Walter:Columbia Symphony Orchestra (Ms)Mildred Miller Recorded 30/6 & 1/7/1960



世間的に名演とされているのが1952年録音のフルトヴェングラー&フィッシャー=ディースカウ盤です。
かなり念入りに化粧を施した演奏で、フィッシャー=ディースカウのいきり立ったような歌い回しには正直言って違和感を感じます。若い頃ならば、この熱さに共感もできたのですが、還暦も近くなってくるといささか鬱陶しさを感じてしまいます。ただし、フルトヴェングラーの伴奏は意外なくらいに抑制的ですが、それでも良く聞いてみると細かいニュアンスには不足はなく、厚化粧を感じさせない上手な化粧です。

次の1952年録音のベイヌム盤は意外なほどに理知的な美女です。フィッシャー=ディースカウ都は真逆で、もう少し感情を表に出してもいいんじゃないの!と思ってしまいます。熱いのも鬱陶しいのですが、ここまで低体温だといささか困りものです。素子得、その責任の大部分は「Nan Merriman」にあるように思います。どういう人なのかはよく分からないのですが、何とも冴えん歌い回しです。

そして最後に60年録音のワルター盤ですが、これは肩の力の抜けた自然体のナチュラル美人です。
3人から一人を選べと言われれば、迷わずにこの子を選びますね。「Mildred Miller」という歌手もあまりよく知らないのですが、実にチャーミングで素直な歌い回しが素敵です。そして、その歌を優しく包み込むようなワルターの伴奏も優しさに溢れています。