クラシック音楽へのおさそい〜Blue Sky Label〜

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チャイコフスキー:交響曲第6番 「悲愴」

フルトヴェングラー指揮 ベルリンフィル 1938年10〜11月録音

  1. チャイコフスキー:交響曲第6番 ロ短調 作品74「悲愴」「第1楽章」
  2. チャイコフスキー:交響曲第6番 ロ短調 作品74「悲愴」「第2楽章」
  3. チャイコフスキー:交響曲第6番 ロ短調 作品74「悲愴」「第3楽章」
  4. チャイコフスキー:交響曲第6番 ロ短調 作品74「悲愴」「第4楽章」


私は旅行中に頭の中でこれを作曲しながら幾度となく泣いた。

 チャイコフスキーの後期の交響曲は全て「標題音楽」であって「絶対音楽」ではないとよく言われます。それは、根底に何らかの文学的なプログラムがあって、それに従って作曲されたというわけです。
 もちろん、このプログラムに関してはチャイコフスキー自身もいろいろなところでふれていますし、4番のようにパトロンであるメック夫人に対して懇切丁寧にそれを解説しているものもあります。
 しかし6番に関しては「プログラムはあることはあるが、公表することは希望しない」と語っています。弟のモデストも、この6番のプログラムに関する問い合わせに「彼はその秘密を墓場に持っていってしまった。」と語っていますから、あれこれの詮索は無意味なように思うのですが、いろんな人が想像をたくましくしてあれこれと語っています。

 ただ、いつも思うのですが、何のプログラムも存在しない、純粋な音響の運動体でしかないような音楽などと言うのは存在するのでしょうか。いわゆる「前衛」という愚かな試みの中には存在するのでしょうが、私はああいう存在は「音楽」の名に値しないものだと信じています。人の心の琴線にふれてくるような、音楽としての最低限の資質を維持しているもののなかで、何のプログラムも存在しないと言うような作品は存在するのでしょうか。
 例えば、ブラームスの交響曲をとりあげて、あれを「標題音楽」だと言う人はいないでしょう。では、あの作品は何のプログラムも存在しない純粋で絶対的な音響の運動体なのでしょうか?私は音楽を聞くことによって何らかのイメージや感情が呼び覚まされるのは、それらの作品の根底に潜むプログラムに触発されるからだと思うのですがいかがなものでしょうか。
 もちろんここで言っているプログラムというのは「何らかの物語」があって、それを音でなぞっているというようなレベルの話ではありません。時々いますね。「ここは小川のせせらぎをあらわしているんですよ。次のところは田舎に着いたうれしい感情の表現ですね。」というお気楽モードの解説が・・・(^^;(R.シュトラウスの一連の交響詩みたいな、そういうレベルでの優れものはあることにはありますが。あれはあれで凄いです!!!)
 
 私は、チャイコフスキーは創作にかかわって他の人よりは「正直」だっただけではないのかと思います。ただ、この6番のプログラムは極めて私小説的なものでした。それ故に彼は公表することを望まなかったのだと思います。
 「今度の交響曲にはプログラムはあるが、それは謎であるべきもので、想像する人に任せよう。このプログラムは全く主観的なものだ。私は旅行中に頭の中でこれを作曲しながら幾度となく泣いた。」
 チャイコフスキーのこの言葉に、「悲愴」のすべてが語られていると思います。

フルトヴェングラーの悲愴


 戦前のSP盤の時代に「悲愴」といえばこの演奏でした。もしかしたら、ベートーベンの「運命」と並んで、フルトヴェングラーの2枚看板の一つと言えたのかもしれません。ただ、戦後の半世紀が過ぎて、フルヴェンのベートーベンは今もその威光を失うことはありませんが、チャイコフスキーとなると「えっ!、フルトヴェングラーがチャイコフスキーなんか振っていたの?」なんて言われるぐらい地盤沈下してしまいました。
 確かに第3楽章なんかはあまりにも恣意的な感じがしますし、第2楽章の歌わせ方なんかもちょっと古いかなという気もします。しかし、両端楽章は実に立派なものです。
 第1楽章で「P」が6つもついた部分があります。
 あるコンサートのリハーサルの時に、どんなに小さく演奏しても「もっと弱く!!」と注文をつけられるので、最後は演奏するのをやめると「よし!!」と満足したというエピソードが語り継がれています。EMIの正規盤であるこの演奏ではどうかと思って聞いたのですが(^^;、さすがにそんなことはありませんでしたが、当時の録音技術から言えば精一杯のダイナミックレンジの中で頑張っているとは言えます。
 現在にあっても十分に聞く価値のある演奏だと思うのですがいかがなものでしょうか。