クラシック音楽へのおさそい〜Blue Sky Label〜


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フランク:交響曲 ニ短調

フルトヴェングラー指揮 ウィーンフィル 1953年12月14.15日録音

  1. フランク:交響曲 ニ短調 「第1楽章」
  2. フランク:交響曲 ニ短調 「第2楽章」
  3. フランク:交響曲 ニ短調 「第3楽章」


偉大なるマイナー曲

この屈指の名曲を「マイナー曲」と言えばお叱りを受けそうですが、意外ときいていない人が多いのではないでしょうか?まあCDの棚に一枚か二枚程度は並んでいるのでしょうが、それほどに真剣に聞いたことはないと言う人も多いのではないでしょうか?

名曲というハンコはしっかり押されているにもかかわらず何故か人気はないと言う点で、「偉大なマイナー曲」と表現させてもらいました。

理由はいくつか考えられるでしょうが、まず第一に、フランクが交響曲という分野ではこれ一曲しか残さなかったことがあげられるでしょう。
交響曲作家というのは一般的に多作です。ベートーベンの9曲を代表として、少ない方ではブラームスやシューマンの4曲、多い方ではショスタコーヴィッチの15曲というあたりです。マーラー、ブルックナー、ドヴォルザーク、チャイコフスキー、シベリウスなどなど、誰を取り上げてもそれなりにまとまった数の交響曲を残しました。
それだけにたった1曲しか残さなかったフランクの交響曲は、何かの間違いで(^^;、ポット産み落とされたような雰囲気が漂って「あまり重要でない」ような雰囲気が漂ってしまうのがマイナー性を脱却できない一つの理由となっているようです。

ただ、これは彼の人生を振り返ってみると大きな誤解であることは明らかです。吉田秀和氏がどこかで書いていましたが、60歳をこえ、残りの人生が少なくなりつつある10年間に、それこそねらいを定めたように、一つのジャンルに一作ずつ素晴らしい作品を産み落としたのがフランクという人でした。
そして、交響曲という分野においてねらいを定めてたった一つ産み落とされたのがこの交響曲なのです。

何かの片手間でポッと一つだけ作曲されたのではなく、自分の人生の総決算として、まさにねらいを定めたように交響曲という分野でたった一つだけ生み出され作品がこのニ短調のシンフォニーなのです。

さらにマイナー性を脱却できない第二の理由は作品が持つ「暗さ」です。とりわけこの作品の決定盤として君臨してきたフルトヴェングラーの演奏がこの暗さを際だたせた演奏だっただけに、フランクの交響曲は「暗い」というイメージが定着してしまいました。

たしかに、第一楽章の冒頭を聞くと実に「暗い」事は事実です。しかし、聞き進んでいく内に、この作品の本質がそのような暗さにあるのではなく、じつは「暗」から「明」への転換にあることに気づかされます。
そう、辛抱して最後まで聞いてくれればこの作品の素晴らしさを実感してもらえるのに、多くの人は最初の部分だけで辟易して、聞くのをやめてしまうのです。(実はこれってかつてのユング君でした・・・)

最終楽章の燦然と輝く音楽を聴いたとき、このニ短調の交響曲というのはあちこちで言われるような晦渋な作品ではなく、実に分かりやすい作品であることが分かります。そして、いかにドイツ的な仮面をかぶっていても、この作品は本質的にはフランスの音楽であることも了解できるはずです。

トスカニーニ vs フルトヴェングラーという「因縁の対決」の代理戦争


カンテッリのフランクを聞いていて、そう言えばフルトヴェングラーの53年盤をアップしていないことに気づきました。
この二人の演奏は両極と言っていいほどに佇まいが異なっているので、これを同時にアップするのは面白そうです。また言葉をかえれば、トスカニーニ vs フルトヴェングラーという「因縁の対決」の代理戦争みたいな雰囲気もあります。

カンテッリの演奏は、これもまた一つの模範解答みたいな演奏です。
おそらく、ある程度クラシック音楽なるものを聞き込んでいる人ならば、冒頭の数分間を聞いた時点で、それなりにこの演奏の全体像が見通せてしまうといっていいかもしれません。ただし、これはカンテッリの演奏を貶しているのではありません。そうではなくて、カンテッリの演奏というのは、いってみれば見事なまでに彫琢されつくした彫刻作品を鑑賞するような風情があるのです。聞き手にその全体像をパッとイメージさせるだけの見通しの良さがあり、さらには聞き進むにつれてその細部の仕上げの見事さに感嘆させられるという見事さも併せ持っているのです。
そう言う意味では、美術的な演奏だといっていいかもしれません。

それに比べると、フルトヴェングラーの音楽というのは、そう言う美術的なものではなくて、その本質は極めて文学的なのだと納得させられます。
彼の演奏は、冒頭の数分間を聴いてみても、果てさてこれからどうなっていくのかは全く見当がつきません。音楽というものは、今まさに初めて生まれだしたかのように演奏されなければならない・・・みたいなことをいっていたような記憶があるのですが、フルトヴェングラーの演奏というのは基本的には一編のドラマです。ドラマである限り、冒頭の数分で全体が見渡せては困るのです。そして、そのドラマは既に何度も見たことがあるにもかかわらず、彼の手にかかると初めて見たときのようなドキドキ感が常にあるのが凄いのです。

当然のことながら、前者がトスカニーニの方法論であり後者がフルトヴェングラーの方法論でした。そして、多くの後継者を持ち、その後の演奏スタイルの基本形となったのは前者のトスカニーニの流儀でした。それと比べれば、フルトヴェングラーの後継者は、猿まねみたいな指揮者は何人かは現れましたが、本当の意味での後継者は一人も現れなかったと言えます。そしてその事が、フルトヴェングラーには他に替わるもののないオンリーワンの魅力があり、それ故に信奉者も多く、それがフルトヴェングラー>トスカニーニみたいな図式に結びついた傾向がこの国には存在します。言うまでもないことですが、オンリーワン=ナンバーワンではありません。オンリーワンなんだから、フルトヴェングラーこそが凄いのだ!と短絡してはいけないと言うことです。
音楽というものは、実に多様なアプローチを許容する芸術です。逆に言えば、そのような多様性を許容するものこそが真に偉大なものだといっていいのでしょう。ですから、できれば安直な価値付けはやめて、その多様性を楽しみたいとは思います。

しかしながら、一つ指摘しておきたいのは、そのようなオンリーワンというものは、時として灰汁が強すぎて「勘違い」もしくは「独りよがり」と紙一重になる恐れも内包しています。例えば、このドラマチックなフランクの交響曲は確かに聞くものを惹きつける魅力にあふれていますが、果たしてそれがどこまで許容されのかは意見の分かれるところでしょう。
ドラマティックな凄い演奏と見るか虚仮威しと見えるか、それもまたその判断は聞き手にゆだねられています。