測定することの重要性と限界

ある方から、どうしてオーディオマニアというのはあんなにも偏狭で頑固な人が多いのでしょう、と言われました。うーん、とうなって、「中年すぎたオヤジというのはどいつもこいつも偏狭で頑固な奴が多いからでしょう」と答えておきました。
「オーディオマニア=中年のオヤジ=偏狭で頑固」、と言う図式です。
私もココロしておかないといけません。

オーディオをめぐる論議となると、最後は「聴感」と「測定したデータ」がぶつかり合うことになります。
ある「対策」によって、ある人は聴感上大きな改善を認められたと主張します。そして、その聴感上の変化は極めて文学的な表現で語られます。
そうすると、必ず、反対側から、「そんな対策で音質が改善するはずなどない、そなんものはオカルトだ!」という批判が寄せられます。最初は、穏やかに議論が交わされていても、ちょっとした言葉の行き違いから急にあつくなって悪罵の投げつけあいになる・・・、という光景は、このサイトのみならず、あちこちで見受けられる事です。

さて、問題は「データを示せ」という主張です。
まず最初に断っておきますが、「データを示す」というのは極めて重要なことです。「聴感」というのは、どこまで行っても個々人のバイアスがかかっていますから、そんなものをいくら持ち寄って比較論議しても客観的な評価などできるはずもありません。
しかし、一見すると、それと相反するようではありますが、人間の聴覚というのは一般的に想像されているよりもはるかに鋭敏で感度が高くて、さらには不思議な点なども多くて、既存の測定データだけではカバーしきれないことも事実です。
それは、昨今のハイレゾ音源の普及によっても明らかです。

人間の可聴帯域は、「測定データ」によると20Hz~20KHzと言われてきました。ですから、CDの規格を決めるときも「16bit 44.1KHz」という器にすることを誰も怪しみませんでした。
ところが、そんな理屈だけでは納得できず、実際に自分の手を動かし、自分の聴感を信じてチャレンジする人たちから、アナログ音源には40KHzあたりまでの情報が入っているのでCDよりも音が良いという主張がでてきました。
この時の、理論派の人々の反応は石板にでも刻んで後世の戒めとして残しておきたいものです。
彼らは、そう言う主張をする人たちを「蝙蝠のような聴感の持ち主」などと言って笑いものにしたものです。

しかし、今や、音楽データに20KHzを超える情報も必要なことを否定する人は一人もいないでしょう。
つまりは、「人間の可聴帯域は20Hz~20KHz」という「測定データ」は、人間の聴覚というものを規定する上では極めて不十分で限界のあるものだったのです。

繰り返しますが、データはとても大切です。これは否定してはいけません。
しかし、同時に、人間は自分の「聴覚」の限界さえも未だにつかみかねているのです。その事に対して謙虚に向き合うならば、「測定されたデータ」が持つ限界と言うことも見据えておかなければなりません。

しかし、こういう抽象的な話では納得のいかない方もいるでしょうから、「測定の限界」と言うことについて別の具体例を取り上げてもう少し詳しく考えてみたいと思います。

地球は太陽の周りを回っています。
今では小学生でも知っている自明の理論です。ところが、1616年にローマ教皇庁はこの地動説を禁じました。カソリックの名誉のためにつけ加えておきますと、マルティン・ルターも地動説を否定したので、罪はカソリックだけではありません。
つまり、数百年前には、このような考え方は神を否定するオカルトだと言って処罰の対象となったのです。
ですから、ガリレオは裁判にかけられ、地動説を唱えないことを宣誓させられました。

しかし、そのような強権によってではなく、考えに考え抜いて、最後には地動説を否定した偉大な天文学者もいました。
ティコ・ブラーエです。

彼は、新星や彗星の精密な観測によって、従来の天動説をくつがえしました。しかし、根っからの観測者であったブラーエは、地動説が真実ならば当然観測されるであろう「年周視差」が最後まで観測できなかったことを持って、最終的には「地動説」を否定し、彼独自の「修正天動説」を唱えることになります。

<修正天動説による太陽系モデル>

年周視差とは、以下の図を見てもらえば分かるように、地球が太陽の周りを公転しているならば季節によって恒星の相対的な位置が変わるはずだという、実に分かりやすい論点です。

しかし、この偉大な観測者であったブラーエは、その生涯をかけて観測したデータを元にしても、そのような「視差」は確認できなかったので、この誠実な天文学者は最終的に地動説を否定したのです。

しかし、ブラーエの弟子であったケプラーは、師の残した膨大なデータを「地動説モデル」に当てはめて、後の世に「ケプラーの三法則」と呼ばれるものを発見します。
<高校時代を思い出しますね^^;>

そして、この地動説モデルに基づく法則によって作られた天文表(ルドルフ星表)が極めて正確であったために、専門家の間ではなし崩し的に天動説から地動説への移行が始まりました。

それでも、理論派の人々は地動説に対して多くの疑問点を投げかけてきました。

(1)地球が動いているとすると、何故に月は取り残されずに地球についてくるのか?
ガリレオが望遠鏡を使って木星の観察を行い、その周りを回っている4つの衛星を発見したことで、事実を持って論破される。
(2)地球が動いているとするならば、何故に空を飛ぶ鳥は地球から取り残されないのか?また、動いている地球が何故にいつまでも動き続けるのか?
ニュートンによって万有引力の法則が発見されることで、鳥は取り残されもしないし、一度動き出した地球は外から大きな力が加わらない限り永久に動き続けることが証明された。

このように、ケプラーやガリレオ、そしてとりわけニュートンの理論的貢献によって、地動説は確固たる基盤を築き、科学的な真実として多くの人に受け入れられていきました。
しかし、ブラーエが予想し、そして最後まで観測できなかった「年周視差」はニュートンの時代になっても観測されませんでした。
この時、さすがに天動説に固執する人(例えば、バイナリが一致するんだから音は変わるはずはない・・・と言うような人かな?)は極めて少数になりましたが、やはり観測データとして「年周視差」が確認できないというのは「のどに刺さった小骨」のような存在となっていきました。

そして、この観測されないという事実を前に、多くの人が漸くにして気づいたのです。
どうやら、夜空に光っている星々というのはとてつもなく遠いようだ・・・と。
もしも、その星々が無限の彼方にあると仮定するならば(そのようなことは有り得ないのですが)、年周視差は理論的には「0」になります。その時は、つまりは測定不可能となるのです。
そして、有限の距離であっても、無限とも思えるほどに遠く離れていれば、その角度は限りなく「0」に近づき、観測することは限りなく不可能だと言うことになります。

ここからのストーリーは既に多くの方がご存知のことでしょう。
初めてこの「年周視差」が観測されるのは1838年で、対象となった恒星は「はくちょう座61番星」でした。そして観測された年周視差はわずか「0.314秒」でした。

肉眼の分解能力は視力1.0で1度の60分の1程度(60秒)と言われますから、ブラーエがいくら観測の達人だったと言っても到底観測できるような値ではなかったのです。
さらに言えば、この時の観測に使われた「はくちょう座61番星」というのは固有運動が極めて大きい特殊な恒星でした。それ以外のごく普通の恒星の年周視差が正確に測定されるのは、ヒッパルコス衛星という高精度視差観測衛星が打ち上げられる「1989年」を待たなければならなかったのです。
この時に求められた観測精度は「1,000分の1秒角(0.001秒)」でした。これは大気の揺らぎのある地上からでは実現不可能な精度でした。

つまり、ブラーエが求めた年周視差を確認するために必要な観測精度は、ブラーエの死から400年近い時間が経過して初めて現実のものとなったのです。
しかし、天文学者が賢明だったのは、たとえ年周視差が観測できなくても、決して地動説を否定しなかったことです。ましてや、天動説に固執して「年周視差のデータを出せ」と息巻く愚か者もいなかったことです。

確かに測定をしてデータを元に論議することは重要です。しかし、測定されたデータもまた「万能」ではないことも肝に命じる必要があります。

たとえてみれば、私たちのような存在は自分の興味の趣くままに夜空に望遠鏡を向けているアマチュア天文家のようなものです。アマチュアにできることは、そうやって夜空に向けた望遠鏡を通して見いだした事実を報告するだけです。
さらに言えば、オーディオの世界はアナログに関しては100年を超える蓄積がありますが、デジタルに関して言えば30年程度の蓄積しかありません。そして、その30年の大部分は「CDプレーヤー」というブラックボックスに押し込まれていたのです。
この「パンドラの箱」がPCオーディオという呪文によって蓋が開いたのはわずか数年のことです。そして、このパンドラの箱から次々と厄介極まる代物を引っ張り出してきているのが、アマチュア天文家たちなのです。

とは言え、それでオカルトを跋扈させる気は毛頭ありません。
実感として音の変化は関知できそうな気はするが、現状の理論や測定によって確認できないものは基本的には以下のように取り扱うのがベターではないかと考えています。

  1. 人間の聴感上、違いが感じ取れる(感じ取れる人が一定数いる)が理論的には説明しきれないことに関してはサスペンデッドにしておく。
  2. 現時点では「分からない部分がある」という度量を持つ。
  3. その事に関する「改善を訴える商品」に関しては排除する。

特に、3番目の、曖昧さが残ることを根拠にして「改善」できるという商品を排除するというスタンスさえとっていれば、オカルトがはびこることはかなり防げると思います。
できれば、熱くならずに、生産的な論議ができればいいかと思います。


7 comments for “測定することの重要性と限界

  1. k
    2012年6月3日 at 8:52 PM

     私もオーオタと呼ばれる程度のお金を機材につぎ込んでいる(ハイエンドではなく、ローエンドです。)のですが、この違いが感じ取れる一定数ではないと、最近思っています。 
     それで、今、気になるのが、一定数ではない私のような人間が、お、これは良い音だと感じられる、最小価格の製品がどの辺りにあるかです。
     とは言うものの、やはり、こうすると良い音になるという事については、やはり、気になるので、悩ましいところです。
     今後の展開を楽しみにしています。

  2. yung
    2012年6月3日 at 9:28 PM

    >それで、今、気になるのが、一定数ではない私のような人間が、お、これは良い音だと感じられる、最小価格の製品がどの辺りにあるかです。

    これってとても大切なことだと思いますね。
    私は、一貫して、アンプはプリとパワーでそれぞれ100K円、スピーカーは200K円、そして入力系はPCオーディで総額100K円、締めて500K円程度で「感動」できるような製品が次々と出てこないと、この業界は死に絶えると思っています。

  3. S.D.
    2012年6月11日 at 12:23 PM

    「バイナリが同じでも音が違う」ということを文字通りに解釈すれば、同じシステム・同じファイルでも再生のたびに音は変わりうるということかと思います。
    そういうことはもちろんあり得ると思いますが、その理屈ではAIFFとWAVとで音が違うことを説明できません。

    単にランダムな変化ではなく、ファイルフォーマットによって音の「傾向が変わる」とすれば、それはデータ自体ではなくデータを処理する経路のどこかに原因があると見るべきでしょう。
    実際Bach.aiffをBach.wavに変換してバイナリ比較するとオーディオ部分は完全に一致するので、これらは「同一バイナリ」と見ていいわけですから。

    AIFFとWAVとではどこかしら異なるプログラムが走るでしょうから、(我々には窺い知れない、誰かの譲れない思いのため)どちらかにだけハイビットへの補完処理がかまされていて、他方はそのまま余剰ビットにゼロが入って出力されているかもしれない。
    よしんばオーディオインターフェースに送られるデータストリームそのものに違いがなくても、たとえばCPUにかかる負荷が違えばそれが電源の変動を招き、最終的な出音に影響しているかもしれない。

    どちらも考えにくいことではありますが、可能性は否定できないと思います。そしてこういった要因以外に、音が変わる理由を私は思いつきません。

    そして肝心なのは、もし理由がこれならば音の変化は完全に「システム依存」であるということです。音の変化の傾向は、PCのハード構成やOSやオーディオAPIや再生ソフトやオーディオインターフェースのドライバなどによっていかようにも変わりうる。
    もしそうなら一般論としてAIFFの音はこうでWAVはどうなどということは言えないし、追試で同じ結果が出る理由も全くなくなります。もちろん環境によってはまったく音が変わらないことも普通にあり得ると。

    オーディオファイルのフォーマットによって音が変わる環境と変わらない環境、どちらが優れているかといえば答は明らかでしょう。実験して音が違うのであれば、まずは再生ソフトやPCやOSを変えてみてどこかに変化要因がないかを探し、変化のない環境がみつかったならそれを優先的に採用すべきであろうと私は考えます。

  4. yamame
    2012年6月12日 at 8:21 PM

    ようやく正鵠を射るご意見が出て、安心いたしました

  5. Phoenicia
    2012年6月17日 at 8:45 PM

    >CPUの電流変動のノイズがクロック系に影響し、そのジッターの差を聴き取れるという事ですから

    それが真であるか偽であるかも含めて断定的なことは解明されていないのではと思います。
    解明されていれば、その手順を第3者が追試検証しても再現性がある訳ですが、そこまで進んでいないのでは無いでしょうか。

    解明されると有難いと思います。

  6. yung
    2012年6月17日 at 9:04 PM

    なんか「差が出るほうが脆弱で悪い環境である」という風潮にしてしまうと、やはりyungさんをはじめ差が聴き取れる方々は気落ちしてしまうと思うのです…。

    大丈夫、決して気落ちなんかはしませんよ。(^^v
    ただ、住んでる世界が違うなぁー・・・なんて思うだけです。

    そうでないと、趣味として楽しみがないですからね。

  7. S.D.
    2012年6月17日 at 11:38 PM

    やはり最後の段落はやめておけばよかったですね。そこに過剰反応される可能性は十分わかっていたのですが・・・

    たとえばAIFFのほうが「音が良い(好きだ)」となったところで、じゃあWAVはAIFFに変換して聞けばハッピーですね良かった良かった。
    で、マザボを交換したらこんどはWAVのほうが良くなるのかもしれないという話なわけです。いや、もっと極端なことを言えば、明日聞いたら今日とはメモリ上のアドレスが変わっていてそのために音が違うかもしれない、と。来月聞いたらOSのどっかがアップデートで内部動作変わっていて音が違うかもしれない、と。

    趣味としてそれもまた楽しいものだとは思いますが、「どこが原因でそうなるのかわかったほうがもっと楽しいのでは?」と思うわけですね。というより、今日ここでたまたま「AIFFはWAVより音が○○でした」と宣言することになんの意味があるのだろうか、と思ってしまうわけです。

    ファイル名の長さでもきっと変わるんですよね、という皮肉を書こうかと思っていたら実際書き込み禁止で変わるというコメントがあって先を越されたなとw。
    それってまあなんというか、意味なくないですか?サイコロ振ってるのと変わらない。

    HDDをデフラグしたら音が良くなりました。 USBケーブルで音が変わりました。みなさん大真面目です。いや、いいんですよ。いいんですけど・・・

    ああ、やっぱり住む世界が違うってことですねw。
    大変失礼しました。

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