クラシック音楽へのおさそい〜Blue Sky Label〜


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ブラームス:交響曲第2番

ワルター指揮 ニューヨークフィル 1953年12月28日録音

  1. ブラームス:交響曲第2番 ニ長調 作品73 「第1楽章」
  2. ブラームス:交響曲第2番 ニ長調 作品73 「第2楽章」
  3. ブラームス:交響曲第2番 ニ長調 作品73 「第3楽章」
  4. ブラームス:交響曲第2番 ニ長調 作品73 「第4楽章」


ブラームスの「田園交響曲」

ブラームスが最初の交響曲を作曲するのに20年以上も時間を費やしたのは有名な話ですが、それに続く第2番の交響曲はその一年後、実質的には3ヶ月あまりで完成したと言われています。ブラームスにとってベートーベンの影がいかに大きかったかをこれまた物語るエピソードです。

第2番はブラームスの「田園交響曲」と呼ばれることもあります。それは明るいのびやかな雰囲気がベートーベンの6番を思わせるものがあるかです。

ただ、この作品はこれ単独で聞くとあまり違和感を感じないでのですが、同時代の他の作品と聞き比べるとかなり古めかしい装いをまとっています。この10年後にはマーラーが登場して第1番の交響曲を発表することを考えると、ブラームスの古典派回帰の思いが伝わってきます。
オケの編成を見ても昔ながらの二管編成ですから、マーラーとの隔絶ぶりはハッキリしています。
とは言え、最終楽章の圧倒的なフィナーレを聞くと、ちらりと後期ロマン派の顔がのぞいているように思うのはユング君だけでしょうか。

ワルターの多様性


このことはすでにあちこちで書いてきましたから、またここで同じことを繰り返すというのはいささか気がひけるのですが、それでも繰り返さずにはおれません。
ワルターといえば最晩年のコロンビア響とのスタジオ録音が代表的な録音として世間一般に流布しています。ですから、ほとんどの人がワルターとの出会いといえばこの一連の録音によってです。もちろん、ユング君はこれら一連の録音にケチをつけるわけではありません。それどころか、20世紀を代表する偉大な指揮者の音楽をこのような良質のステレオ録音で享受できることに感謝の念を持っています。
しかし、その後になって、彼が未だに「現役」として活躍していた頃の「モノラル録音」を聞くようになってから、この一連のステレオ録音を聞き直してみると、いろいろと複雑な感情がわき上がってくることは否定できません。

私たちの手元に残されたワルターの録音を聞き直してみると、彼の音楽が第2次世界大戦の勃発によってアメリカへの亡命を余儀なくされたことを境に大きく変化したことに気づかされます。
ヨーロッパ時代の彼の音楽を一番よく表しているのは、シューベルトの未完成やハイドンの軍隊でしょう。さらに、マーラーの使徒として現代の音楽も積極的に取り上げていた姿をもっともよく現すものとしては、マーラーの9番があげられます。
それらの演奏は、どれをとっても濃厚なロマン主義に彩られた非常に味の濃い音楽です。

ところが、亡命によってアメリカに移ってからは音楽の姿は一変します。たとえば、戦時中にニューヨークフィルを振ったベートーベンのエロイカなどは、時には攻撃的とすら感じるほどのたくましさにあふれた音楽となっています。そこには、ヨーロッパ時代の脂粉の香りはかけらもありません。
そして、ここで紹介している50年代のブラームスの交響曲も、そのようなワルターの姿をはっきりと刻印しています。そして、個人的な好みから言えば、彼の数多く残されたブラームスの録音の中ではこのニューヨークフィルとの録音が最も好ましく思えます。とにかく響きが充実していて、がっしりとした音楽の造形の中から、ブラームスらしいロマンが香ってくるのが素晴らしいです。
ブラームスという人は常にベートーベンの影を意識し続けた人なのですから、まずは音楽の造形をしっかりとしてあげなければ可哀想です。そして、その後から、彼の本能とも言うべきロマンティックな香りを匂い立たせてほしいのです。ザッハリヒカイトに徹しすぎて音楽がひからびるのは願い下げですが、脂粉にまみれてなよなよしたブラームスはそれ以上にご免です。

そして、最後にもう一度大きく姿を変えたのが、功成って現役をすでに引退した後にレコード会社から途方もない好条件をもって依頼されて取り組んだコロンビア響との録音です。
いや、もう少し正確に言えば、彼の本能であるところのヨーロッパ時代の姿に先祖返りをしたように聞こえます。
しかし、アメリカにおけるザッハリヒカイトの洗礼を受けた後では本当の意味で昔の姿に戻ることはできなかったようです。もちろん、ブラームスの4番やベートーベンの6番のように実にうまくいったものもありますが、ヨーロッパ時代の濃厚なロマン主義でもなければ、アメリカ時代の筋骨たくましい男性的な音楽でもない、どっちつかずの中途半端なものも少なくありません。それを人は、中庸の美と呼び、善人ワルターを代表する円満な音楽として褒め称えて彼の代表的な業績として定着してしまいました。
もちろん、そのことに異議を唱える人もいなかったわけではありません。一部の熱烈なマニアは戦前のワルターの録音を探し回ってロマン主義者としても彼を称揚し、コロンビア響との録音に異議を唱え続けていました。
しかし、不思議なことに、彼が最も精力的に活動を行っていてアメリカ時代の録音を評価する人はほとんどいませんでした。たまに、その時代の録音に光が与えられることがあっても、ほとんどがヨーロッパへの里帰り公演で、ヨーロッパ時代の彼の本能が爆発したような演奏ばかりでした。(たとえば、ウィーンフィルとのモーツァルトの25番や40番、さらにはマーラーの2番「復活」などなど・・・)

一つの時代を代表したほどの指揮者の全容をとらえるというのは大変なことです。それがワルターのように大きな変身を繰り返した巨匠であるならばなおさらです。しかし、幸いなことに、最近になってニューヨークフィルとのモノラル録音もきちんとした形でCD化されるようになってきて、大きな欠落であった部分が埋まり始めています。
もし、この録音をお聞きになってお気に召したのならば、是非ともそれらの録音にも触手を伸ばしていただければ、この偉大な指揮者の姿がより陰影の富んだ姿でとらえることができるのではないでしょうか。